【講義ノート】人類学A 2020/07/27

オンライン方式で進めてきた人類学Aの授業ですが、今回が最終回となります。

2003年の旧型コロナウイルスSARSの流行事件のときに(当時の中国政府が感染拡大の情報を公開していなかったという理由もあるのですが)たまたま中国の少数民族の村で発熱して倒れ(いまだに原因は不明なのですが)、そしてこの春に同種のウイルスの第二波が中国からやってきたということで、そちらのほうの議論にずいぶんと時間をかけてしまいました。

しかし、いま目の前にある問題を考えることは重要ですが、大元をたどると、それはコウモリなどの珍獣が珍重され、市場で売られているというところから始まっているので、なぜ中国で珍獣が珍重されるのかという文化を理解し、衛生状態を改善しなければ、また同じ病気の第三波、第四波が繰り返されてしまうでしょう。

そのようなこともあり、授業が後へ後へとずれ込んでしまいましたが、人間の精神文化の中でも、もっとも抽象度が高い、宗教の話をして、この授業を終えます。

教材へのリンクですが、年度初めに発表した講義計画(→「人類学A 西暦2020年度」)の最後の3週間ぶん、7月13日から27日までが残ってしまいました。日本の古代の文化を残す沖縄、神話への構造主義的アプローチなど、それぞれに興味深いテーマではありますから、関心があれば、ぜひリンク先の記事を読んでください。そして、質問があればディスカッションの中で聞いてください。

しかし、私じしんのフィールドワークの体験談としても、タイで一時出家した話(→「タイでの出家」)を中心にして議論できればと思います。まずはこの記事を読んでください。出家したとはどういうことか?と思われるかもしれませんが、それはここでお話しすると長くなることでもありますから、ぜひ本文を読んでください。

この授業では、他の動物とは違う、人間の特徴として、芸術や宗教のような精神文化について議論してきました。精神文化の中でも、もっとも物質的な世界から離れた、抽象度の高い文化が宗教です。人間は宗教という文化を持つという点において、他の動物とは区別される、といっても過言ではありません。

ただ、日本(とくに本土)では、宗教というと、生活とはすこし離れた場所にあります。それゆえ「宗教」という言葉の意味がわかりにくいところがあります。

初詣は神社、結婚式は教会、お葬式はお寺、といった特別なイベントとは関係していますが、宗教という思想の体系が、社会生活の中に組み込まれていたり、あるいは政治的な力を持ったり、日本では、そういうことが、あまりありません。それは、世界の他の地域と比べても、特殊なことです。組織的な宗教が政治的な権力と結びつくといったことがなく、思想の自由があることは、むしろ現在の日本の良いところでもあります。

宗教というものには二つの側面があって、ひとつは共同体の中で、その構成員に対してある一定の神話(物語)をシェアするという役割です。たとえば日本でも沖縄にはそういう文化が色濃く残っています。大ざっぱな比喩でいえば、身近なところに占い師というかカウンセラーのような人たちがたくさんいて、よろずの相談をしてくれるというものです。

ふつうに宗教というと、人間の世界の外側に神様や死後の世界などの超自然的な概念があると仮定し(本当にあるのかないのかは客観的には知り得ませんが)それを信じることで人間の生きる意味や社会的な規範を提供するという文化のことです。

それから、いっぽうでは、インドや仏教での瞑想のように、社会というよりは、自分じしんの心を見つめる、という、また別の側面もあります。それを宗教という言葉で呼ぶべきかどうかはともかく、それが人間の精神文化のもっとも顕著な部分だと思います。つまり、人間は他の動物と違い、自分じしんの生きる意味を考えながら生きる存在です。しかも、瞑想やヨーガという実践は、自分じしんの心を自分じしんで自己言及的に見つめていくことで、生きていることを再確認するという、そういう作業であり、それが、大脳化した人間の精神文化の、もっとも本質的な部分であろうと考えられます。

(なお、期末レポートについては、もうすぐ課題を公表しますが、基本的な考えを問いかけるだけですから、それほど細かい心配はしないでください。)



CE 2020/07/26 JST 作成
CE 2020/07/27 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「不思議現象の心理学」2020/07/24

不思議現象の心理学の授業も最終回です。最終回は、秋学期の「身体と意識」につなげていきます。「不思議現象の心理学」と「身体と意識」は別の授業ですが、同じようなテーマを別の角度から論じます。秋学期に「身体と意識」を履修する人には、「身体と意識」の予習になるように、「身体と意識」を履修しない人には、この一回で「身体と意識」がどういう内容なのか、その要旨を概観できるように、ざっとお話します。

「身体と意識」の概要

秋学期の「身体と意識」の授業計画は、まだ正確な日程は確定していませんし、ほんとうに教室で実施できるのかも確定していませんが、内容としては「身体と意識 西暦2020年度」のページに書いたとおりで、ほぼ、その内容を扱います。

以下には具体的なリンク先を示しませんが、それぞれのテーマの内容は、上の段落にある「身体と意識」の授業計画から辿れます。

「不思議現象の心理学」のほうが、外的、客観的な不思議現象を扱うのに対して「身体と意識」のほうが、内的、主観的な不思議体験を扱います。ですから、二つの科目は、相補的です。別々に履修できる科目ですが、両方履修すると、より立体的な理解が深まるでしょう。

たとえば「幽霊」を見た、というのは、外的な現象ですが、「臨死体験」をした、というのは、内的な体験です。ある人が亡くなるときには、本人は病院で臨死体験をしており、家族や友人は自宅でその人の姿を見ているかもしれません。

意識の諸状態

内的な不思議体験と言いましたが、具体的には「変性意識状態」を扱います。「不思議」とはいいましたが、そもそも人間が「意識」を持っていること自体が「不思議」なのだということには、「不思議現象の心理学」に通底するテーマでありました。

そしてこの人間の「意識」は、複数の「状態」をとることができます。そして、それぞれの「状態」に対応した「現実」があります。日常的な「意識の状態」に対して、それ以外の意識状態を「変性意識状態」またすべての意識状態を「意識の諸状態」ということもあります。わたしたちが暮らしている現実世界は、単数ではなく、多数あるのです。

睡眠と夢

現実世界が多数あるとはどういうことなのか、抽象論が先走りましたが、もっとも身近な変性意識状態は、寝ているときにみる「夢」です。「夢」の中にいるときは、「夢」という現実の中で過ごしており、しかも、これが日常的な意識の状態だと考えながら生きています。睡眠と覚醒の中間状態でも、特殊な夢をみます。とくに入眠時にみる夢のことを、入眠時幻覚、といいます。

こうした意識の状態は、もっとたくさんあります。同じ夢でも、「これは夢ではないのか?」と気づく夢は「明晰夢」と言います。睡眠状態にあって夢をみていない状態も、ひとつの意識の状態です。主観的な意識がないので、対応する世界もありません。昏睡状態も同様です。

臨死体験

昏睡状態なら戻ってこられますが、死はどうでしょう。脳をはじめとする身体の機能が失われるのですから、死は闇でしょうか。ところが、不思議なことに、死にかけてから戻ってきた人の体験、つまり臨死体験というのですが、天国のような平和な光の世界を体験するのだそうです。しかし、これは戻ってきた人の話ですから、本当に死の先へ逝ってしまった人は、やはり暗闇の世界に行くのでしょうか。

その他の偶発的な変性意識状態

通常の覚醒状態の中でも、意識の状態は変化します。感情が変化するごとに、目の前の現実は変わります。気持ちが明るくなれば、目の前の現実も変わります。気持ちが暗くなれば、目の前の現実も暗くなります。

美的体験や宗教的体験は、覚醒状態の中で起こる、もっとも特殊な意識状態ですが、それは、近代社会においては、問題にされないか、精神疾患とみなされます。

精神疾患とはなにかといえば、ふつうに生活するのには難しい精神の状態だと定義してもよいでしょう。気持ちが明るくなりすぎれば、躁病、気持ちが暗くなりすぎれば、うつ病、あるいは不安障害などと呼ばれます。存在しないはずのものが見えたり、その声が聞こえたりすれば、それは統合失調症と診断されるかもしれません。

精神疾患とみなされそうな意識状態でも、近代社会ではむしろ望ましいものとしては、スポーツや恋愛などがあります。スポーツへの極度の集中は、「ゾーン」などと呼ばれる、下の段落で触れるような、自己催眠や瞑想のような体験を引き起こします。精神的な恋愛と肉体的な性行為は相互作用ですが、とりわけ性的な絶頂感では、宗教体験に近い体験が起こることがあります。その多くは快の体験であり、それゆえ精神疾患とはみなされません。しかし、たとえば失恋をきっかけにうつ病になるかもしれません。

催眠と瞑想

意識の状態を意識的に変えることもできます。たとえば催眠がそうです。ふつう、他人の誘導を受け、意識はあるのにまた別の意識があるような、不思議な感覚です。自己催眠や瞑想は、一人で自分の意識を変えます。

ヨーガや坐禅などを含む瞑想は、自己催眠の一種とみることもできますが、偶発的にではなく、意識的に宗教体験を引き起こすものです。瞑想を極めていくと、未来が予知できるとか、人の病気が治せるようになるとかいう話もあります。それが本当なのかは研究が必要ですが。

向精神薬

さらに、化学的な方法として、向精神薬を摂取しても意識の状態は変わります。中枢刺激薬を服用すれば、日常の意識がより明晰になります。逆に、睡眠薬を飲むと、眠ってしまいます。精神展開薬という特殊な向精神薬を服用すると、意識が明晰なまま、夢をみるような体験をします。これは、明晰夢臨死体験とも似ています。

バーチャルリアリティ

さらに人工的なものには、バーチャルリアリティーVR)があります。アナログからデジタルまで、絵画や音楽、写真や動画は、人工的なVRです。平面的なディスプレイではなく、二つのモニタを入れたゴーグルを使って、立体視ができます。これで動画を見ると、かなり現実味のある、別の現実を体験することができます。この技術は急速に進んでおり、視聴覚に関しては、現実と区別ができないぐらいのVRも開発されつつあります。

心身問題・心物問題

これは「不思議現象の心理学」の哲学的なまとめとしては、科学と非科学の境界設定問題を扱いましたが、「身体と意識」では、精神と物質、精神と身体の関係、つまり「心身問題」「心物問題」という、もうひとつの哲学的問題にまとめていきます。

臨死体験者の多くが、死後の世界をかいま見てきたと言います、肉体が死んだ後も、精神だけが生き延びるのでしょうか。それとも、それは脳が作りだしている夢のようなものでしょうか。夢は、脳が作りだしている幻覚です。もしそうなら、覚醒時に見ている世界もまた、脳が作りだしている幻覚であり、すべては幻覚だ、という理屈も成り立ちます。

夢の中では、夢の中の身体で行動します。それなら、覚醒時の身体も、覚醒という夢の中の身体かもしれません。これも屁理屈でしょうか。しかし、ゲームの中のキャラクターに自己を投影するとき、それはゲームという仮想現実の中の身体だといえます。平面的なモニタであればともかく、VRの中に没入しているときには、あたかもVRの世界で仮想の身体を持って行動しているという錯覚を感じます。しかし、その錯覚を、錯覚と言える根拠は、どこにあるのでしょう。

期末レポート

期末レポートですが、自分が体験した、身近で見聞きした(知り合いの知り合いが、という、都市伝説のような、あやふやなものは除外)不思議現象について、その内容を記述しつつ、それを論理的に解釈する、という内容です。いまこの講義ノートのページに挙げたような、主観的体験でもかまいません。客観的か、主観的かというだけで、両者は重複しています。

すでに履修した人から、あの授業は何か不思議な体験を書けば合格らしいから、楽勝だと聞いて、この科目に登録した人もいるかもしれません。だからこの科目は履修者が多いのかもしれません。しかし、そうした体験を論理的に解釈することは、かなり難しい課題です。

不思議な体験談を書いてください、と問うと、じつは多くの人が不思議な体験をしていることがわかり、驚いています。たとえば臨死体験ですが、これは子どもから高齢者まで、一般人口の5%程度が体験していると言われますが、大学生ぐらい、20歳ぐらいの年齢でも1%ぐらいの割合で体験者がいるということは、驚きです。「不思議現象の心理学」や「身体と意識」のような科目を履修する人は、不思議な体験に興味がある人なのだから、偏りはあります。しかし、履修者数が千人にもなると、大きな偏りはないといえます。

これは、調べられているようで調べられていない現象の研究にも役立ちますし、今までの授業で履修者の皆さんから聞いた体験談をもとに、次年度以降の授業にもフィードバックしていき、授業の内容も、より充実していくという仕組みでもあります。(授業の内容は、ブログ上にアップしているので、卒業してからでもアクセスできます。)

なるほど、この科目では、細かい知識を問うて、細かく点数をつけたりはしません。細かい知識というよりは、不可思議な現象を、論理的に分析していく、そういう考え方を学ぶ科目だからです。(これは、科目の種類によって違います。たとえば、語学の授業は、細かい知識を丸暗記するしかないというところがあります。なぜこの名詞が女性形なのか?男性形なのか?なぜこの動詞がこんなに不規則に活用するのか?といったことは、そういうものだ、と思って暗記するしかないのです。)

考えかたを重視する科目ですから、昨年度まではすべて記述式で行ってきましたが、履修者が千人を超え、そのこと自体はとてもありがたいのですが、ある程度は、穴埋め式、マルバツ式、といった、客観的に採点できる部分も組み合わせる方向で、問題を作成中です。



CE 2020/07/22 JST 作成
CE 2020/07/24 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「人類学A」2020/07/20

春学期人類学Aの授業も残すところあと二回となりました。しかし、前回はリンクを張った教材が多すぎたようで、今週も先週の講義ノート(→「【講義ノート】「人類学A」2020/07/13」)をもとに議論を進めていきたいと思います。

おおよその流れをふり返りますと、まず、「生物の系統分類と人間の位置」と「サル目(霊長類)の系統分類」は、なるほど、すべての地球生命は四十億年前の共通祖先から進化してきたのか、そして人間(ヒト)もまた地球上に何百万種類もいる生物の一種なのか、と、ザッと見てもらった後で「人類の進化と大脳化」を読んでください。

先週と重複しますが、人間が他の生物と違うところは、言語を持ち、道具をつくり、社会を発展させてきたことでもあるのですが、同時に、芸術や宗教といった、生物として生きていくという目的を超えた精神文化を持つということでもあります。そのことは「化石人類の物質文化と精神文化」に書いています。

先史時代の美術作品として、洞窟壁画をとりあげましたが、何万年も前から伝わる原始美術と最先端の現代美術を独自の様式で発展させてきた「オーストラリアの先住民族と現代美術」をとりあげ、そこで日本の草間彌生さんやGOMAさんの現代美術を取り上げました。さらに「精神疾患と創造性」、つまり、いわゆる狂気と天才は紙一重なのか、という話題をとりあげます。精神病というのは脳の病気で、遺伝的な要因が強い、というと、どこか差別的なニュアンスがあるかもしれませんが、脳の表層的な部分が振り切れてしまうと、脳の深層に沈んでいた原始的な創造性が噴出してくることがある、という見方もできます。

当初の講義計画で7月13日〜20日に扱う予定だった部分についても簡単に触れておきます。宗教性と精神疾患という問題です。芸術は近代社会においてはさほど変わったものだとは考えられていませんが、シャーマニズムのような「原始宗教」、つまり、神のお告げを伝えたり、霊が憑依したりという現象については、そもそも近代社会では「正常」とはみなされず、精神疾患と重なる部分が多くなります。逆にいえば、かつては社会的な意味を持っていた、憑依や呪術などが、近代社会においては「精神病」という枠組みに囲い込まれてきたのだ、と考えることもできます。

シャーマニズムアニミズム(自然崇拝)などというと、どこか原始的なイメージがあります。宗教といえば、狭い意味では、キリスト教、仏教、あるいはイスラームが代表的です。これらは世界三大宗教というもので、世界中のほとんどの地域がこの三つの宗教文化圏に分類できます。

その中では、日本は意外に特殊です。仏教や神道という宗教はあっても、社会生活を行う上での道徳的な指針のようなものを示してくれるという色彩は薄いのです。私は仏教徒ですとか、私は神道を信じています、という言い方はあまりしません。日本人の宗教文化の基本にあるのは自然崇拝と祖先崇拝です。山や岩や木へのアニミズム的崇拝、これは神道の基本にあるものですし、日本で仏教といっても日常生活レベルでは祖先崇拝と結びついています。

日本の宗教文化の原型は、沖縄にもっとも色濃く残っています。沖縄というと、日本本土からみると、半分外国のような、東南アジアのような、というイメージがありますが、じっさいには、むしろ古代以前の日本文化のルーツが存在する場所です。仏教伝来、神道の組織化以前の自然崇拝、祖先崇拝、シャーマニズムが、おそらく世界でももっとも活発に行われている場所のひとつです。

来週は、最後にひとつ、私がタイの僧院で出家したお話をしたいと思います。出家というと浮世を捨ててしまうという感じで、驚かれるかもしれませんが、同じ仏教国だと思われているタイと日本を比べると、タイでは、仏教という宗教がほんとうに日常生活の中にある、と思わされます。

ふつうの人がふらりとお寺に行って瞑想をしたり、その延長線上で、出家、つまりお寺に住み込んで読経と瞑想の日々を送るということが、ふつうに行われています。そして、またお寺を出て街に戻ったり、行ったり来たり、そういう自由度があります。仏教、とくにタイやミャンマーなどの上座部仏教では、人間の外側に存在する神様を信じるのではなく、自分で自分の心を見つめ、自分の内部に真理を見出す、と考えます。

個々人の内部に真理があり、それがすべての人間にとっての普遍的な真理でもある、という思想は、近代的な個人主義・民主主義とも整合性が高く、タイのような社会でも、社会が近代化するほどに、逆に仏教が社会と一体化され、整備されてきた、という側面もあります。

なお、試験の代わりのレポート課題については、作成中です。もうすぐできあがります。あまり些末な知識を問うような問題にはしません。どうか、もう少々お待ちください。



CE 2020/07/19 JST 作成
CE2020/07/20 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「不思議現象の心理学」2020/07/17

当初の授業計画に追いついてきました。来週の最終回は、全体をまとめつつ、秋学期の「身体と意識」の紹介をしたいのですが、今週は、まず当初の予定表で7月17日に扱う予定だった「科学と非科学の境界設定問題【必須】」を勉強してください。

女神が病気を治すと考えるのは非科学的か

今年度の授業の最初のほうで、2003年のSARS騒動で体験したことをお話しました(→「SARS流行下の中国で発熱・臨死様体験」)。中国の雲南省で熱を出して寝込んでしまい、深夜に熱にうなされていたとき、密教的な女神のヴィジョンが出現、病気を治すと告げられ、その女神と一体化する、そういう不思議な体験をしました。翌朝には、すっかり熱が下がっていました。すこし咳は残りましたが。

夢に女神が出てきたから治ったのだ、などと言えば、そんな非科学的な話があるまい、ということになります。この場合に非科学的、というのは、女神などという物質的実在は存在しない、あるいは、夢の中に出てきた女神は、夢であって、物質的身体には直接作用できない、という意味です。

けれども、女神の夢が病気を治したのかどうか、そんなことはありえない、と決めてかかるほうが、非科学的だ、ともいえます。つまり、ここでの科学とは先入観なしに、なんでも客観的にきちんと調べることだ、という意味です。この授業では、スプーン曲げやテレパシーなどの話をしましたが、ありえないと決めつけるのではなく、あるかないか、きちんと調べてみよう、それが科学的なのだ、という立場で話をしてきました。

夜の熱が、朝には下がっていたのだとしたら、それは、女神のせいなのかもしれませんし、自然治癒のせいなのかもしれません。一回かぎりのことですから、それ以上は確かめられません。しかし、多数の症例を集めれば、なにかわかるかもしれません。高熱を出したときに、いろいろな幻覚というか、不思議な夢を見る人は多いのです。神仏のような印象的な存在が出てきた場合と、出てこない場合を比較してみれば、差があるかもしれません。科学とは、そういう手続きのことであって、神仏が実在するかどうかは保留する、という立場もあります。

詳しいことは、リンク先の教材を読んでください。

パラダイムと研究プログラム

それから「パラダイム」という、科学史上の概念があります。詳しくは「『パラダイム』と『研究プログラム』【必須】」を読んでください。

科学史でよく語られるのが、天動説(地球が止まっていて、太陽や星が回っている)から地動説(地球が自転し、さらに太陽のまわりを公転している)への進歩のプロセスです。天動説という間違った説から、地動説という正しい説への進歩の歴史と理解するのが、ふつうです。

しかし、天動説であっても、計算の仕方を変えれば、天体の運動を説明し、予測できますから、天動説も間違いではないのです。地動説も間違いではありません。違いがあるとすれば、地動説のほうがずっとスッキリしたモデルですから、計算がずっと簡単になる、ということです。

また天動説のほうが、日常的な生活感覚によくなじみます。地面は平らで、太陽や月や星は、東の空から昇って、西の空に沈んでいきます。

地動説では、地球は平らなのではなく、丸いと考えます。それは、直感的に言って、非常識です。いくら遠くまで出かけても、地面はずっと平らです。いや、地球の大きさはぐるりと4万kmもあり、人間的な活動のレベルの小ささからすれば、ほぼ平らに見えます。

地動説では、地球という周径4万kmの球体が、24時間で一回転すると考えます。時速にすると、約1700kmとなります。飛行機で地球の裏側のブラジルまで行くと、地球を半周するわけですが、だいたい24時間かかります。往復だと、地球を一周するわけですから、48時間です。そうすると、地球が回転している速さは、飛行機の二倍ぐらいになります。今この地面が、飛行機の二倍の速さで動いているとは、とても思えません。非常識な発想です。地動説では、地球の重力と、遠心力が釣り合っていることによって打ち消されているから、周囲の空気もいっしょに動くから、なにも感じないのだと説明します。

そうすると、天動説と地動説のどちらが正しいとは、いちがいには言えなくなります。地動説のほうが、単純で美しいモデルで、計算もしやすいのですが、しかし、天動説のほうが、日常の生活感覚には合っているのです。

総じて科学の進歩は、日常的な生活感覚から離れていく方向で進んできました。

そうであれば、スプーン曲げやテレパシーなど、ちょっと考えて常識的にありえない、という結論には飛びつけないことになります。

日常の中の科学社会学科学史

余談ですが、天動説と地動説というと、昔の話ですし、ちょっと抽象的かもしれません。教材の中には、宗教と科学の対立や、科学と政治の関係、などについても触れましたが、いまの日本では、さいわい、科学の進歩を妨げるほどの宗教的権威もなく、政治的権力もありません。

しかし、日本での日常生活の中にも、異なる仮説が政治色を帯びることはあります。同じ現象に対して、それをより良く説明しようとしているのに、相容れない思考の体系というものがあります。

たとえば、原発事故のときに、放射性物質の安全性が問題になりました。こういう事故が起こったのは、原子力発電を進めてきた政府の責任ではないか。やはり原発は止めよう、そういう議論と、放射性物質の安全性についての議論が結びつき、政治性を帯びました。

少量の放射線を浴びるとむしろ健康になる(ホルミシス効果)という仮説もあるのですが、そうした仮説が、原発推進派に都合がよい、そもそも医学的な根拠のはっきりしない仮説だと、批判されたり、あるいは、利用されたりしました。

いま現在は、新型コロナウイルス感染症が問題になっています。原発事故に比べれば、より自然災害に近い現象なので、それほど強い政治性はありません。しかし、放射性物質は物質であり、しかも放置しておけば減っていく一方です。それに比べると、ウイルスは人間の社会活動に依存して増減しますから、感染症はより社会的な問題でもあります。

強いて二分すれば「とにかく感染を最小に抑える」というパラダイム(のようなもの)、と「社会的経済的活動を抑制をしすぎてはいけないので、多少の感染は仕方がない」というパラダイム(のようなもの)があります。

これは、なかなか同時には実現できません。よく研究し、よく話し合って、最適な妥協点を見出さなければなりません。けれども、二つのパラダイムがそれぞれの体系を作ってしまうと、話し合ってよりよいやりかたを模索していくというよりは、それぞれのパラダイムの中に入ってしまうと、そのパラダイムが当然のことのように思えてきて、それ以外のパラダイムが説明する出来事が理解しにくくなってきます。あるいは、パラダイムの外側の出来事に気づかなくなってしまいます。

下に引用したエッセイにも書きましたが(わざわざ読まなくてもかまいません)、たとえば「とにかく感染を最小限に抑える」というパラダイムから見ると、東京都で感染者数が増加している、という数字が、重大な問題となります。いっぽうで、東京都で重症患者数が減っている、という反証事例は、あまり顧みられなくなりがちです。

このままでは経済が危ない、という立場からすると、たとえば失業率と自殺率には相関があることから、2020年度の自殺者は、昨年度の2000人から、5000人増の、25000人(1日あたりの死亡数は約70人)に増加する、という計算もあります。これは、かなり深刻な数字ですが、そちらのほうばかりを見ていると、想定外の感染爆発が起こり、何万人も、何十万人もの犠牲者が出る、という可能性のほうを軽視してしまいがちです。

そして今後も科学的な研究が進めば、ワクチンや治療薬の開発だけでなく、もっと画期的な発見が起こり、二つのパラダイムを包括するようなパラダイムが出てくるかもしれませんし、そうやって科学が進歩していくことが望ましいことでありましょう。

(→【余談】「人不知而不慍」(こちらのブログは、私人として、日々徒然に書いたエッセイのようなもので、あまり学術的な議論ではありません。))



CE 2020/07/15 JST 作成
CE 2020/07/17 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「人類学A」2020/07/13

オンライン講義という変則的な事態の中で、いつの間にか今回も含めてあと三回になりました。教材ページの作成がいつも遅くなってしまい、恐縮です。

私的な体質ではあるのですが、どうしても夜は眠れなくなり、朝は起きられなくなってしまいます。

それで、一時期、ナイトホスピタルという入院をしたことがあります。ようするに、夜は病院で過ごし、朝起きて、そこから出勤して、夕方には病院に帰って来るという、それだけなのですが、それで早寝早起き生活を叩き込まれました。私も最初は半信半疑だったのですが、強制的な合宿生活に慣れてくると、自堕落な生活に慣れきっていた脳が鍛え直されるのを実感しました。

ところで、睡眠障害は、分類上は精神科の領域なので、入院も精神科の病棟になります。統合失調症うつ病の患者仲間たちと暮らす日々というのは、独特の社会学習になりました。精神科病棟などというと、偏見があるかもしれませんが、精神科病棟に入院している人たちは、脳が疲れて、脳の一部分が炎症を起こしているだけで、もともとは、普通の人たちです。そこは偏見を持ってはいけません。治療が終われば、普通の人として退院していきます。

ただ、ごくたまに、天才的な狂気という雰囲気を持っている人はいます。私は、ナイトホスピタル生活中に、偶然、前衛革命芸術家、草間彌生さんと出会いました。衝撃的でした。九十歳の現在に至るまで四十年間、病院で暮らしつつ、病院の斜め向かいに、病院よりも立派な自分の美術館を建ててしまったという、こんな人は、他に聞いたことがありません。

しかし、心を病めば創造性が高まるかというと、そうでもありません。ただ、精神病的な傾向と、学術・芸術(あるいは宗教)における創造性には、未解明の相関があります。詳しくは「精神疾患と創造性」を読んでください。

それはさておき、話を戻しましょう。先週は「人類の進化と大脳化」について扱いました。

それはハードウエア面での話ですが、ソフトウエア面では、人間の人間たるゆえんは、精神文化を持つことです。

もちろん、人間にとって道具や言語や社会は重要ですが、人間の特殊なところは、芸術や宗教など、生きていくのには必ずしも必要のない活動を発展させてきたところにあります。詳しくは「化石人類の精神文化」に書きました。芸術ということで美術、宗教ということで埋葬を例にとっています。(音楽や祈りのような行為は物的証拠を残しにく、研究しにくいのです。)

とくに洞窟壁画のことをとりあげましたが、そこから、現代の「オーストラリア先住民美術」へと話を続けます。オーストラリアには五万年以上前から先住民が住んでおり、先史時代の壁画から、都市での現代美術まで、同じ文化の中で連続性を持っている、とても特異な世界が発達してきました。そしてこのオーストラリアの先住民美術と草間彌生さんの絵がよく似ているのです。正直なところ、私は草間さんの絵が綺麗だとは思わないのですが、いや、むしろ不気味ささえ感じるのですが、そこに非常に原始的な衝動を感じます。ある種の狂気の爆発であり、爆発の裂け目から、先史時代の人間の想いが溢れだしてくる、そういう力を感じます。

精神展開薬(サイケデリックス)を服用したときに感じる世界とも似ています。色とりどりの模様を「サイケ」などといいますが、それは表面的な見えかたであって、その背後には、それを感じている、それを描いている本人の、溢れんばかりの、というか、溢れまくって手に負えないぐらいの創造性の爆発を感じます。



CE 2020/07/12 JST 作成
CE 2020/07/13 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「人類学A」2020/07/06

人類学Aの、7月6日ぶんの講義ノートです。

「昼の領域」と「夜の領域」

いま、大学のほうでも、活動制限をゆるめて、大学での授業を、少人数の授業から再開していこうという考えもあるのですが、外出自粛のような制限をゆるめると、また感染症が広がってしまう、第二波が来たか、などと言われていますが、これは困ったジレンマです。

原発事故のときにも放射性物質が放出されて問題になりましたが、放射性物質は人間が何をしようが、勝手に分裂して減っていきます。しかし、ウイルスというのは、一種の生き物ですから、人間がじっとしていると減っていき、人間が活動すると増えていく、もっと生物学的かつ社会的な現象なので、難しいところです。

ただ、研究や検査が進みつつあるのは、希望です。感染者数が増えたとはいっても、検査数が増えたので、今まで発見されなかった感染者が発見されやすくなったという数字も含んでいます。若い人は感染しても無症状であることが多いので、検査が進むと、見かけ上、若者に感染が拡大しているような数字になります。

はしかのウイルスはもっぱら空気感染するそうですが、今回の新型コロナウイルスは唾液に多く含まれており、飛沫感染が多いという知見も蓄積されてきています。つまりは、他人の唾液が自分の口の中に入るという、そういう状況を重点的に避ければよいということです。

このことは、感染者がどんな「クラスター」から起こりやすいのかということから推測できます。「夜の街」という言葉を目にすることが多くなりましたが、これは不適切な表現ですね。定義がはっきりしません。

性風俗産業であれば、唾液と唾液が直接接触することもあるでしょうから、これは特殊です。もっと一般的な状況としては、複数の人と話をしながら食事をすることです。しかし、これは昼夜を分かたず行われていることです。ただ、そういう場合でも、しゃべるときにはマスクをする、食べるときにはしゃべらない、といった細かい(難しい?)配慮をすれば、感染のリスクは減るでしょう。

ただ同じ部屋にいてはいけないとか、人との距離を遠ざけるとか、そういう大まかなところから、より細かい対応ができるようになれば、たとえば飲食店は唾液に注意、でも黙ってパチンコをするのはリスクが低い、といった、感染の拡大防止と社会的活動の活性化とを両立させていける方法が考えていけるでしょう。

余談からすこし話を戻すと、中国の雲南省モソ人、「通い婚」の習慣がある民族の話をしました。ふだんは別々に暮らしている男女が、夜だけ共に過ごす。日本語にも「夜這い」という言葉があります。暗い場所だから目立たなくていいのかと思いきや、そういう具体的な理由だけではなく、昼間は日常的な労働の世界、夜は非日常的性的な世界と、そういう「昼/夜」という象徴的な観念があるようでした。日本語の「夜の街」という言葉も、実際になにをしているかというよりも「夜」という象徴的な観念なのでしょう。

今日の本題の、脳の進化のところでもお話したいのですが、人間は基本的に昼行性の動物です。夜は寝ます。脳が大きいので、脳を休めるために、長時間寝る必要があります。またすこし性的な話題で恐縮ですが、「寝る」という言葉が性的行為の比喩であるのも不思議なことです。本当に眠っていたら、なにもできませんから。

私はオーストラリア(ブリスベン)にも住んでいたことがあるのですが、オーストラリア大陸は地理的な隔離のゆえに、一億年ぐらい前の地球はこんな感じだったのか、という動物相が残っています。オーストラリアというと、コアラやカンガルーなどの有袋類の世界なのですが、昼間は寝ていて出てきません。カンガルーなども、夜にピョンピョン出てくるので、びっくりします。

昼間はというと、商店街にも、大学の構内にも、大きな飛べない鳥たちが闊歩しています。意外なことですが、鳥は恐竜の子孫です。

一億年前には爬虫類である恐竜が昼の世界を支配していて、哺乳類は夜の世界で暮らしていました。いまでも哺乳類には夜行性の種が多く、霊長類、猿の仲間でも、原始的なものは夜行性です。暗いところでも目が見えたり、嗅覚を使ってコミュニケーションをしたりします。霊長類の一部が昼行性になり、昼の世界で進化していきました。人間もその系統です。フェロモンによるコミュニケーションはほとんどなくなり、暗い場所では目が見えにくい反面、色覚が発達しました。だから人間にとっては昼間に活動するのがふつうで、夜の世界は特殊な世界なのです。

コミュニケーションの濃度

先週は、大学生がブラジルのアヤワスカ茶を飲んで救急車で運ばれたとか、逮捕されたとか、そういう事件を聞いて慌てていました。(その事件の真相解明は進んでいますが、授業ではこれ以上触れません。)そこから派生して、ブラジルの社会についてお話をししました。

いま、ブラジルでも新型コロナウイルスが感染を拡大しているようです。そもそも欧米とアジアでは百倍ぐらい違う、これはなぜなのか。流行しているウイルスの種類が違うのだという説もありますし、しかし、文化的な要因もあるでしょう。ブラジルでは、挨拶として相手を抱きしめます。相手の両側のほっぺたにキスをします(男性どうしではあまりやりません)。言葉も交わします。「全部良い?」「全部良いよ!」という、決まり文句があります。キスという言葉に翻訳できるのかどうか、これらの一連の行動を「beijos」といいます。独特の挨拶行動です。

それに比べると、日本人は「ソーシャルディスタンス」が遠いですね。遠くて、なおかつ声も小さいから、唾液も飛びません。ブラジルの大学で、日本語を学んでいる西洋系の学生と、道端ですれ違ったことがありました。彼は、私の姿に気づくと、ちょっと腰を屈めて、会釈しました。言葉はひと言も発しませんでしたが、この学生さんは「生きた日本語」をきちんと勉強しているな、と感心しました。

脳の進化

話を本題に元に戻しましょう。ヒトをヒトたらしめているもの、人類の進化、脳の進化というテーマです。

人類学という学問以前に、脳という特殊な構造と機能は、あるていど知っておくのは一般教養ということで、「神経伝達物質と向精神薬」からリンクを張っている動画だけでもざっと見てもらえれば、というお話をしました。

ここまでは一般教養ですが、人類学という学問の特徴は、比較する、ということにあります。それは、人間と他の生物を比較して、生物の多様性の中で人間の独自性を知ることであり、また同じ人間の中でも、民族や文化の比較を行い、その多様性の中で、個々の民族や文化の独自性を知ることでもあります。

大きな脳を持つことは、他の生物と比べた、人間の大きな特徴です。なぜ人間の脳はこれほど大きいのか、それは、進化のプロセスを追うことによって研究することができます。「脳の系統発生と個体発生」のページを見てください。ふつう「発生」という言葉は、一個の受精卵が分裂して人間の形になっていくプロセスという意味で使われます。子どもが大人になることを「発達」といいますが、これは英語だと同じ「development」になります。

ところで、生物の進化をふり返ると、もともと単細胞生物だったものが、多細胞生物になり、植物や動物へと進化してきました。これも「発生」ですから、進化のことを「系統発生」ということもあります。進化を「系統発生」という場合は、個々の個体の発生は「個体発生」と呼ばれて区別されます。

リンク先にも書きましたが「個体発生は系統発生を繰り返す」と言います。動物の祖先である単細胞生物は、精子のように、シッポが生えていて、海の中を泳いで暮らしていたと考えられています。それが、受精卵になり、それが分裂し、形態形成が進み、人間の場合は、だいたい十ヶ月で分娩、出産、つまり子宮の外に出てきます。しかし、発生の過程をみると、最初の二ヶ月ぐらいで急速に形態形成が進みます。最初はオタマジャクシのような形をしていた胎児が、手足が生えて、尻尾が退化し、カエルのようになります。いったん形成された尻尾が退化し、いったん形成されたエラが退化し、その代わりに肺ができます。子宮の中で、何億年かの進化が繰り返されているわけです。それから、脳が大きくなります。あとは、胎児の形はあまり変わらずに、大きさが大きくなっていきます。

系統発生の図のほうには、脊椎動物の脳の進化の図を載せておきました。哺乳類は、単孔類(原始的な哺乳類)であるカモノハシと、鯨類(げいるい)である、ナガスクジラが載っています。クジラやイルカはとても大きな脳を持っているのですが、手足を器用に使って道具をつくったりはしませんし、何を考えているのかは、意外に研究されていません。

そしてもうひとつの系統、霊長類(サル目)ですが、こちらは「人類の進化と大脳化」のほうに詳しく書いておきました。人間の脳が急速に大きくなったのはなぜか、その理由はよくわかっていません。

じつは、脳が大きくなることは、生存のために良いことばかりではないのです。、神経細胞というのは、エネルギーをたくさん消費します。身体の他の部分の細胞の、十倍ぐらいエネルギーを消費します。だから、大きな脳を持つことは、エネルギー的には損失なのです。損失してまでも、脳を大きくする必要は何だったのか、ということが問題になるわけです。

飽食の時代に生きていると、むしろカロリーのとりすぎで健康を害するという、逆のことが問題になっているので、脳がカロリーを消費しすぎて飢えてしまうという状況は想像しにくいですね。(余計なカロリーを消費して健康になりたければ、身体を動かすよりも、難しいことをたくさん考えて、脳細胞を酷使し、それでカロリーを消費するほうが効率が良いことになります。ひょっとして、おうちで脳科学ダイエット、のようなメソッドは、私が知らないだけで、もうあるのかもしれませんが。)

以前の授業で気候変動についての鋭い質問があったので、大幅に加筆しておきましたが、地球の気温が下がり、寒冷化して環境が厳しくなったのを乗り越えるために、大きな脳が進化してきた、という理由もありそうです。

(上記のリンクには、すべて目を通してください。画像が表示されない場合は、報告してください。)



CE2020/07/05 JST 作成
CE2020/07/06 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「不思議現象の心理学」2020/07/10

すみません、今週も授業準備が遅れています。ここ数日、予想外の仕事が舞い込んできてしまい、バタバタしていました。しかし、だからといって大学の授業という本務を疎かにする理由にはなりませんが、どうかご理解ください。といいますか、脳と意識の科学、物理学の哲学というのは、まさに私の専門とする領域でありまして、本当は熱く語りたいのですが(熱く語ったものが下記のリンクです)しかし、手短にわかりやすくまとめるのは、逆に難しいものです。

当初の講義計画では、この授業の最後のほうは、以下のような内容を予定していました。

07/03 記憶・予知・自由意志
→「時間反転対称性の破れ・・・
07/10 意識科学と現代物理学
『超常現象』は現代物理学で説明できるか
現代物理学と心物問題
07/17 科学・未科学疑似科学
科学と非科学の境界設定問題
07/24 全体のまとめ
秋学期「身体と意識」予告編

じっさいには、講義はあともう3回になりました。24日も実施します。24日が最後の授業になります。秋学期の「身体と意識」を履修する予定の人には予告編、履修しない人にはダイジェスト版、となるような形で、全体を総括します。

その一週間前の授業では、そもそも「科学」とか「科学的ではない」という問題を議論します。

そうすると、今週の授業では、以下に挙げたような、かなりハードコアな内容を一気に扱うことになります。

→「時間反転対称性の破れ・・・
『超常現象』は現代物理学で説明できるか
現代物理学と心物問題

リンク先には、今までに私が一般向けに、わかりやすく書いたものがアップしてあります。それでもまだ、わかりにくいかもしれません。なにしろ、20世紀になってから発展してきた、現代物理学の話になっているからです。高校でも理科はそんなにやらなかった、という人には、とっつきにくいですね。基礎からきちんと勉強していけば、とても美しくて、(本当の意味で)不思議な世界なのですが。

思い切って単純化しましょう。

まず「予知」の問題です。予知とは、未来がわかることです。(予測とか、予報とか、同じような意味の言葉もあります。)

たとえば、10年前に、何をしていたか。これは「記憶」ですから、思いだせます。過去の写真などの記録もあるかもしれません。

しかし、10年後に、何をしているのか。これは「予知」ですから、わかりません。占い師などに言われて、10年後に本当だとわかったら、それは、予知という超能力でしょうか?

単純な自然現象であれば、予知(予測)は、不思議なことではありません。2030年7月25日に月食が起こる、といったことは、正確に予測でき、ほぼ、外れることはありません。

しかし、占い師さんのところに行って、10年後を占ってもらったとします。10年後には、30歳?結婚して、んー、白い色の家に住んでいて、小さな子どもが見えます。三歳ぐらいの男の子?などなど、そんなことを言われるかもしれません。

それが当たるかどうかは、10年後になってみないとわかりません。その占いが当たるように努力することもできます。結婚相手を探すこと、白い家を探すこと、等々。

いっぽう、占いを外すように努力することもできます。そちらのほうが簡単です。結婚しない、とか、子どもをつくらない、と決めて実行することはできます。もっと極端なことをいえば(あくまでも思考実験ですが)10年以内に自殺をすることも、理屈の上では可能です。

人間は、占い師の話を聞いた上で、将来、どう生きるべきか、努力をすることができます。すべてが可能とはかぎりませんが、許された制約条件の枠内では、未来は自由に選べるのです。これを「自由意志 free will」と言います。

自由意志は、人間(と、一部の動物?)に特有の能力です。10年後に月食が起こると聞いて、太陽と月が位置を変えるということはありません。太陽や月には意志がないからです。

しかし、人間の脳は、有機分子の集合体、物質の集合体です。分子の挙動も、天体の挙動も、同じ運動法則に従います。もし、そうなら、すべては事前に決まっていて(運命?)自由意志など錯覚だ、ということになります。自分が自由に意思決定しているような気持ちになっているだけだ、ということです。

すべては物質の運動法則だけで説明される、と考えることもできます。たとえば、ある20歳の人が占い師のところに行きたくなり、占い師のところに行き、十年後には結婚していると言われ、しかし30歳ではまだ結婚したくないと考え、30歳の時点では未婚だったとします。そういうプロセス全体が脳や身体を構成する分子の挙動であって、占い師のところに行って話を聞いたり、話を聞いて人生を考えなおしたり、そういうことを、自分の自由意志でやっていると思っていることが、じつは錯覚だった、ともいえるのです。

皆さんは、自分の誕生日を知っているでしょう。たとえば、1999年11月19日、のように。それでは、死亡年月日はわかるでしょうか。それは、わかりませんね。本当は、2092年2月9日と決まっていて、知らないだけなのかもしれません。しかし、知ってしまえば、また変な話で恐縮ですが、それより前に「自由意志」によって自殺することもできます。

これは、矛盾です。パラドックスです。

ようするに何が言いたいのか?

もっと単純化しましょう。つまり、予知とか予言とかいうと、不思議だ、超能力だ、という気がするかもしれませんが、じつは、逆なのです。「未来のことがわからない」ほうが、不思議現象なのです。そして、未来のことについては「自由意志」によって選択できることもまた、不思議現象なのです。

この授業では、透視能力や、スプーン曲げのようなPKの話をしてきました。スプーンが曲がるのは不思議なことですが、腕や指が曲がることも不思議だと考えれば、スプーンや指を「自由意志」によって曲げられる、その「自由意志」こそが、本当に不思議な現象なのです。

この世界がすべて物質でできており、太陽や月が回転しつづけるような物理法則に従っているのなら、それを計算すれば、過去のことも、未来のことも、すべて正確に知ることができます。これを「決定論」と言ったりもします。しかし「自由意志」と「決定論」は、根本的に対立します。

決定論」と「自由意志」の問題は、これもまた哲学上の中心的な問題です。

占いは当たるのか?といった話は、浅いレベルの不思議現象です。本当は、占い師の言うこととは反対のことさえできてしまう「自由意志」のほうが、本当の不思議現象なのです。

だから何?

つまり、本当に不思議なことは、人間が意志や意識を持っているということなのです。

そんなことは当たり前で、不思議ではないとか、自由意志なんかない、自由意志なんか錯覚だ、と考えてもいいのではないか?とみることもできます。

最後につけ加えておきますが、自由意志の問題は、むしろ倫理学の問題かもしれません。たとえば、人を殴ったり、物を壊したりすれば、それは犯罪であって、責任をとらなければなりません。手が勝手に動いて相手にぶつかっただけだ、自分には意志などなかった、自由意志なんて錯覚でしょう、といえば、行為に対して責任をとるという考え自体がなくなってしまいます。自由意志という考え方は、むしろ倫理的に必要なのだ、と考えることもできます。



CE 2020/07/03 JST 作成
CE 2020/07/09 JST 最終更新
蛭川立