【講義ノート】人類学A 2020/07/27

オンライン方式で進めてきた人類学Aの授業ですが、今回が最終回となります。

2003年の旧型コロナウイルスSARSの流行事件のときに(当時の中国政府が感染拡大の情報を公開していなかったという理由もあるのですが)たまたま中国の少数民族の村で発熱して倒れ(いまだに原因は不明なのですが)、そしてこの春に同種のウイルスの第二波が中国からやってきたということで、そちらのほうの議論にずいぶんと時間をかけてしまいました。

しかし、いま目の前にある問題を考えることは重要ですが、大元をたどると、それはコウモリなどの珍獣が珍重され、市場で売られているというところから始まっているので、なぜ中国で珍獣が珍重されるのかという文化を理解し、衛生状態を改善しなければ、また同じ病気の第三波、第四波が繰り返されてしまうでしょう。

そのようなこともあり、授業が後へ後へとずれ込んでしまいましたが、人間の精神文化の中でも、もっとも抽象度が高い、宗教の話をして、この授業を終えます。

教材へのリンクですが、年度初めに発表した講義計画(→「人類学A 西暦2020年度」)の最後の3週間ぶん、7月13日から27日までが残ってしまいました。日本の古代の文化を残す沖縄、神話への構造主義的アプローチなど、それぞれに興味深いテーマではありますから、関心があれば、ぜひリンク先の記事を読んでください。そして、質問があればディスカッションの中で聞いてください。

しかし、私じしんのフィールドワークの体験談としても、タイで一時出家した話(→「タイでの出家」)を中心にして議論できればと思います。まずはこの記事を読んでください。出家したとはどういうことか?と思われるかもしれませんが、それはここでお話しすると長くなることでもありますから、ぜひ本文を読んでください。

この授業では、他の動物とは違う、人間の特徴として、芸術や宗教のような精神文化について議論してきました。精神文化の中でも、もっとも物質的な世界から離れた、抽象度の高い文化が宗教です。人間は宗教という文化を持つという点において、他の動物とは区別される、といっても過言ではありません。

ただ、日本(とくに本土)では、宗教というと、生活とはすこし離れた場所にあります。それゆえ「宗教」という言葉の意味がわかりにくいところがあります。

初詣は神社、結婚式は教会、お葬式はお寺、といった特別なイベントとは関係していますが、宗教という思想の体系が、社会生活の中に組み込まれていたり、あるいは政治的な力を持ったり、日本では、そういうことが、あまりありません。それは、世界の他の地域と比べても、特殊なことです。組織的な宗教が政治的な権力と結びつくといったことがなく、思想の自由があることは、むしろ現在の日本の良いところでもあります。

宗教というものには二つの側面があって、ひとつは共同体の中で、その構成員に対してある一定の神話(物語)をシェアするという役割です。たとえば日本でも沖縄にはそういう文化が色濃く残っています。大ざっぱな比喩でいえば、身近なところに占い師というかカウンセラーのような人たちがたくさんいて、よろずの相談をしてくれるというものです。

ふつうに宗教というと、人間の世界の外側に神様や死後の世界などの超自然的な概念があると仮定し(本当にあるのかないのかは客観的には知り得ませんが)それを信じることで人間の生きる意味や社会的な規範を提供するという文化のことです。

それから、いっぽうでは、インドや仏教での瞑想のように、社会というよりは、自分じしんの心を見つめる、という、また別の側面もあります。それを宗教という言葉で呼ぶべきかどうかはともかく、それが人間の精神文化のもっとも顕著な部分だと思います。つまり、人間は他の動物と違い、自分じしんの生きる意味を考えながら生きる存在です。しかも、瞑想やヨーガという実践は、自分じしんの心を自分じしんで自己言及的に見つめていくことで、生きていることを再確認するという、そういう作業であり、それが、大脳化した人間の精神文化の、もっとも本質的な部分であろうと考えられます。

(なお、期末レポートについては、もうすぐ課題を公表しますが、基本的な考えを問いかけるだけですから、それほど細かい心配はしないでください。)



CE 2020/07/26 JST 作成
CE 2020/07/27 JST 最終更新
蛭川立