【講義ノート】「不思議現象の心理学」2020/07/17

当初の授業計画に追いついてきました。来週の最終回は、全体をまとめつつ、秋学期の「身体と意識」の紹介をしたいのですが、今週は、まず当初の予定表で7月17日に扱う予定だった「科学と非科学の境界設定問題【必須】」を勉強してください。

女神が病気を治すと考えるのは非科学的か

今年度の授業の最初のほうで、2003年のSARS騒動で体験したことをお話しました(→「SARS流行下の中国で発熱・臨死様体験」)。中国の雲南省で熱を出して寝込んでしまい、深夜に熱にうなされていたとき、密教的な女神のヴィジョンが出現、病気を治すと告げられ、その女神と一体化する、そういう不思議な体験をしました。翌朝には、すっかり熱が下がっていました。すこし咳は残りましたが。

夢に女神が出てきたから治ったのだ、などと言えば、そんな非科学的な話があるまい、ということになります。この場合に非科学的、というのは、女神などという物質的実在は存在しない、あるいは、夢の中に出てきた女神は、夢であって、物質的身体には直接作用できない、という意味です。

けれども、女神の夢が病気を治したのかどうか、そんなことはありえない、と決めてかかるほうが、非科学的だ、ともいえます。つまり、ここでの科学とは先入観なしに、なんでも客観的にきちんと調べることだ、という意味です。この授業では、スプーン曲げやテレパシーなどの話をしましたが、ありえないと決めつけるのではなく、あるかないか、きちんと調べてみよう、それが科学的なのだ、という立場で話をしてきました。

夜の熱が、朝には下がっていたのだとしたら、それは、女神のせいなのかもしれませんし、自然治癒のせいなのかもしれません。一回かぎりのことですから、それ以上は確かめられません。しかし、多数の症例を集めれば、なにかわかるかもしれません。高熱を出したときに、いろいろな幻覚というか、不思議な夢を見る人は多いのです。神仏のような印象的な存在が出てきた場合と、出てこない場合を比較してみれば、差があるかもしれません。科学とは、そういう手続きのことであって、神仏が実在するかどうかは保留する、という立場もあります。

詳しいことは、リンク先の教材を読んでください。

パラダイムと研究プログラム

それから「パラダイム」という、科学史上の概念があります。詳しくは「『パラダイム』と『研究プログラム』【必須】」を読んでください。

科学史でよく語られるのが、天動説(地球が止まっていて、太陽や星が回っている)から地動説(地球が自転し、さらに太陽のまわりを公転している)への進歩のプロセスです。天動説という間違った説から、地動説という正しい説への進歩の歴史と理解するのが、ふつうです。

しかし、天動説であっても、計算の仕方を変えれば、天体の運動を説明し、予測できますから、天動説も間違いではないのです。地動説も間違いではありません。違いがあるとすれば、地動説のほうがずっとスッキリしたモデルですから、計算がずっと簡単になる、ということです。

また天動説のほうが、日常的な生活感覚によくなじみます。地面は平らで、太陽や月や星は、東の空から昇って、西の空に沈んでいきます。

地動説では、地球は平らなのではなく、丸いと考えます。それは、直感的に言って、非常識です。いくら遠くまで出かけても、地面はずっと平らです。いや、地球の大きさはぐるりと4万kmもあり、人間的な活動のレベルの小ささからすれば、ほぼ平らに見えます。

地動説では、地球という周径4万kmの球体が、24時間で一回転すると考えます。時速にすると、約1700kmとなります。飛行機で地球の裏側のブラジルまで行くと、地球を半周するわけですが、だいたい24時間かかります。往復だと、地球を一周するわけですから、48時間です。そうすると、地球が回転している速さは、飛行機の二倍ぐらいになります。今この地面が、飛行機の二倍の速さで動いているとは、とても思えません。非常識な発想です。地動説では、地球の重力と、遠心力が釣り合っていることによって打ち消されているから、周囲の空気もいっしょに動くから、なにも感じないのだと説明します。

そうすると、天動説と地動説のどちらが正しいとは、いちがいには言えなくなります。地動説のほうが、単純で美しいモデルで、計算もしやすいのですが、しかし、天動説のほうが、日常の生活感覚には合っているのです。

総じて科学の進歩は、日常的な生活感覚から離れていく方向で進んできました。

そうであれば、スプーン曲げやテレパシーなど、ちょっと考えて常識的にありえない、という結論には飛びつけないことになります。

日常の中の科学社会学科学史

余談ですが、天動説と地動説というと、昔の話ですし、ちょっと抽象的かもしれません。教材の中には、宗教と科学の対立や、科学と政治の関係、などについても触れましたが、いまの日本では、さいわい、科学の進歩を妨げるほどの宗教的権威もなく、政治的権力もありません。

しかし、日本での日常生活の中にも、異なる仮説が政治色を帯びることはあります。同じ現象に対して、それをより良く説明しようとしているのに、相容れない思考の体系というものがあります。

たとえば、原発事故のときに、放射性物質の安全性が問題になりました。こういう事故が起こったのは、原子力発電を進めてきた政府の責任ではないか。やはり原発は止めよう、そういう議論と、放射性物質の安全性についての議論が結びつき、政治性を帯びました。

少量の放射線を浴びるとむしろ健康になる(ホルミシス効果)という仮説もあるのですが、そうした仮説が、原発推進派に都合がよい、そもそも医学的な根拠のはっきりしない仮説だと、批判されたり、あるいは、利用されたりしました。

いま現在は、新型コロナウイルス感染症が問題になっています。原発事故に比べれば、より自然災害に近い現象なので、それほど強い政治性はありません。しかし、放射性物質は物質であり、しかも放置しておけば減っていく一方です。それに比べると、ウイルスは人間の社会活動に依存して増減しますから、感染症はより社会的な問題でもあります。

強いて二分すれば「とにかく感染を最小に抑える」というパラダイム(のようなもの)、と「社会的経済的活動を抑制をしすぎてはいけないので、多少の感染は仕方がない」というパラダイム(のようなもの)があります。

これは、なかなか同時には実現できません。よく研究し、よく話し合って、最適な妥協点を見出さなければなりません。けれども、二つのパラダイムがそれぞれの体系を作ってしまうと、話し合ってよりよいやりかたを模索していくというよりは、それぞれのパラダイムの中に入ってしまうと、そのパラダイムが当然のことのように思えてきて、それ以外のパラダイムが説明する出来事が理解しにくくなってきます。あるいは、パラダイムの外側の出来事に気づかなくなってしまいます。

下に引用したエッセイにも書きましたが(わざわざ読まなくてもかまいません)、たとえば「とにかく感染を最小限に抑える」というパラダイムから見ると、東京都で感染者数が増加している、という数字が、重大な問題となります。いっぽうで、東京都で重症患者数が減っている、という反証事例は、あまり顧みられなくなりがちです。

このままでは経済が危ない、という立場からすると、たとえば失業率と自殺率には相関があることから、2020年度の自殺者は、昨年度の2000人から、5000人増の、25000人(1日あたりの死亡数は約70人)に増加する、という計算もあります。これは、かなり深刻な数字ですが、そちらのほうばかりを見ていると、想定外の感染爆発が起こり、何万人も、何十万人もの犠牲者が出る、という可能性のほうを軽視してしまいがちです。

そして今後も科学的な研究が進めば、ワクチンや治療薬の開発だけでなく、もっと画期的な発見が起こり、二つのパラダイムを包括するようなパラダイムが出てくるかもしれませんし、そうやって科学が進歩していくことが望ましいことでありましょう。

(→【余談】「人不知而不慍」(こちらのブログは、私人として、日々徒然に書いたエッセイのようなもので、あまり学術的な議論ではありません。))



CE 2020/07/15 JST 作成
CE 2020/07/17 JST 最終更新
蛭川立