【講義ノート】「人類学A」2020/07/06

人類学Aの、7月6日ぶんの講義ノートです。

「昼の領域」と「夜の領域」

いま、大学のほうでも、活動制限をゆるめて、大学での授業を、少人数の授業から再開していこうという考えもあるのですが、外出自粛のような制限をゆるめると、また感染症が広がってしまう、第二波が来たか、などと言われていますが、これは困ったジレンマです。

原発事故のときにも放射性物質が放出されて問題になりましたが、放射性物質は人間が何をしようが、勝手に分裂して減っていきます。しかし、ウイルスというのは、一種の生き物ですから、人間がじっとしていると減っていき、人間が活動すると増えていく、もっと生物学的かつ社会的な現象なので、難しいところです。

ただ、研究や検査が進みつつあるのは、希望です。感染者数が増えたとはいっても、検査数が増えたので、今まで発見されなかった感染者が発見されやすくなったという数字も含んでいます。若い人は感染しても無症状であることが多いので、検査が進むと、見かけ上、若者に感染が拡大しているような数字になります。

はしかのウイルスはもっぱら空気感染するそうですが、今回の新型コロナウイルスは唾液に多く含まれており、飛沫感染が多いという知見も蓄積されてきています。つまりは、他人の唾液が自分の口の中に入るという、そういう状況を重点的に避ければよいということです。

このことは、感染者がどんな「クラスター」から起こりやすいのかということから推測できます。「夜の街」という言葉を目にすることが多くなりましたが、これは不適切な表現ですね。定義がはっきりしません。

性風俗産業であれば、唾液と唾液が直接接触することもあるでしょうから、これは特殊です。もっと一般的な状況としては、複数の人と話をしながら食事をすることです。しかし、これは昼夜を分かたず行われていることです。ただ、そういう場合でも、しゃべるときにはマスクをする、食べるときにはしゃべらない、といった細かい(難しい?)配慮をすれば、感染のリスクは減るでしょう。

ただ同じ部屋にいてはいけないとか、人との距離を遠ざけるとか、そういう大まかなところから、より細かい対応ができるようになれば、たとえば飲食店は唾液に注意、でも黙ってパチンコをするのはリスクが低い、といった、感染の拡大防止と社会的活動の活性化とを両立させていける方法が考えていけるでしょう。

余談からすこし話を戻すと、中国の雲南省モソ人、「通い婚」の習慣がある民族の話をしました。ふだんは別々に暮らしている男女が、夜だけ共に過ごす。日本語にも「夜這い」という言葉があります。暗い場所だから目立たなくていいのかと思いきや、そういう具体的な理由だけではなく、昼間は日常的な労働の世界、夜は非日常的性的な世界と、そういう「昼/夜」という象徴的な観念があるようでした。日本語の「夜の街」という言葉も、実際になにをしているかというよりも「夜」という象徴的な観念なのでしょう。

今日の本題の、脳の進化のところでもお話したいのですが、人間は基本的に昼行性の動物です。夜は寝ます。脳が大きいので、脳を休めるために、長時間寝る必要があります。またすこし性的な話題で恐縮ですが、「寝る」という言葉が性的行為の比喩であるのも不思議なことです。本当に眠っていたら、なにもできませんから。

私はオーストラリア(ブリスベン)にも住んでいたことがあるのですが、オーストラリア大陸は地理的な隔離のゆえに、一億年ぐらい前の地球はこんな感じだったのか、という動物相が残っています。オーストラリアというと、コアラやカンガルーなどの有袋類の世界なのですが、昼間は寝ていて出てきません。カンガルーなども、夜にピョンピョン出てくるので、びっくりします。

昼間はというと、商店街にも、大学の構内にも、大きな飛べない鳥たちが闊歩しています。意外なことですが、鳥は恐竜の子孫です。

一億年前には爬虫類である恐竜が昼の世界を支配していて、哺乳類は夜の世界で暮らしていました。いまでも哺乳類には夜行性の種が多く、霊長類、猿の仲間でも、原始的なものは夜行性です。暗いところでも目が見えたり、嗅覚を使ってコミュニケーションをしたりします。霊長類の一部が昼行性になり、昼の世界で進化していきました。人間もその系統です。フェロモンによるコミュニケーションはほとんどなくなり、暗い場所では目が見えにくい反面、色覚が発達しました。だから人間にとっては昼間に活動するのがふつうで、夜の世界は特殊な世界なのです。

コミュニケーションの濃度

先週は、大学生がブラジルのアヤワスカ茶を飲んで救急車で運ばれたとか、逮捕されたとか、そういう事件を聞いて慌てていました。(その事件の真相解明は進んでいますが、授業ではこれ以上触れません。)そこから派生して、ブラジルの社会についてお話をししました。

いま、ブラジルでも新型コロナウイルスが感染を拡大しているようです。そもそも欧米とアジアでは百倍ぐらい違う、これはなぜなのか。流行しているウイルスの種類が違うのだという説もありますし、しかし、文化的な要因もあるでしょう。ブラジルでは、挨拶として相手を抱きしめます。相手の両側のほっぺたにキスをします(男性どうしではあまりやりません)。言葉も交わします。「全部良い?」「全部良いよ!」という、決まり文句があります。キスという言葉に翻訳できるのかどうか、これらの一連の行動を「beijos」といいます。独特の挨拶行動です。

それに比べると、日本人は「ソーシャルディスタンス」が遠いですね。遠くて、なおかつ声も小さいから、唾液も飛びません。ブラジルの大学で、日本語を学んでいる西洋系の学生と、道端ですれ違ったことがありました。彼は、私の姿に気づくと、ちょっと腰を屈めて、会釈しました。言葉はひと言も発しませんでしたが、この学生さんは「生きた日本語」をきちんと勉強しているな、と感心しました。

脳の進化

話を本題に元に戻しましょう。ヒトをヒトたらしめているもの、人類の進化、脳の進化というテーマです。

人類学という学問以前に、脳という特殊な構造と機能は、あるていど知っておくのは一般教養ということで、「神経伝達物質と向精神薬」からリンクを張っている動画だけでもざっと見てもらえれば、というお話をしました。

ここまでは一般教養ですが、人類学という学問の特徴は、比較する、ということにあります。それは、人間と他の生物を比較して、生物の多様性の中で人間の独自性を知ることであり、また同じ人間の中でも、民族や文化の比較を行い、その多様性の中で、個々の民族や文化の独自性を知ることでもあります。

大きな脳を持つことは、他の生物と比べた、人間の大きな特徴です。なぜ人間の脳はこれほど大きいのか、それは、進化のプロセスを追うことによって研究することができます。「脳の系統発生と個体発生」のページを見てください。ふつう「発生」という言葉は、一個の受精卵が分裂して人間の形になっていくプロセスという意味で使われます。子どもが大人になることを「発達」といいますが、これは英語だと同じ「development」になります。

ところで、生物の進化をふり返ると、もともと単細胞生物だったものが、多細胞生物になり、植物や動物へと進化してきました。これも「発生」ですから、進化のことを「系統発生」ということもあります。進化を「系統発生」という場合は、個々の個体の発生は「個体発生」と呼ばれて区別されます。

リンク先にも書きましたが「個体発生は系統発生を繰り返す」と言います。動物の祖先である単細胞生物は、精子のように、シッポが生えていて、海の中を泳いで暮らしていたと考えられています。それが、受精卵になり、それが分裂し、形態形成が進み、人間の場合は、だいたい十ヶ月で分娩、出産、つまり子宮の外に出てきます。しかし、発生の過程をみると、最初の二ヶ月ぐらいで急速に形態形成が進みます。最初はオタマジャクシのような形をしていた胎児が、手足が生えて、尻尾が退化し、カエルのようになります。いったん形成された尻尾が退化し、いったん形成されたエラが退化し、その代わりに肺ができます。子宮の中で、何億年かの進化が繰り返されているわけです。それから、脳が大きくなります。あとは、胎児の形はあまり変わらずに、大きさが大きくなっていきます。

系統発生の図のほうには、脊椎動物の脳の進化の図を載せておきました。哺乳類は、単孔類(原始的な哺乳類)であるカモノハシと、鯨類(げいるい)である、ナガスクジラが載っています。クジラやイルカはとても大きな脳を持っているのですが、手足を器用に使って道具をつくったりはしませんし、何を考えているのかは、意外に研究されていません。

そしてもうひとつの系統、霊長類(サル目)ですが、こちらは「人類の進化と大脳化」のほうに詳しく書いておきました。人間の脳が急速に大きくなったのはなぜか、その理由はよくわかっていません。

じつは、脳が大きくなることは、生存のために良いことばかりではないのです。、神経細胞というのは、エネルギーをたくさん消費します。身体の他の部分の細胞の、十倍ぐらいエネルギーを消費します。だから、大きな脳を持つことは、エネルギー的には損失なのです。損失してまでも、脳を大きくする必要は何だったのか、ということが問題になるわけです。

飽食の時代に生きていると、むしろカロリーのとりすぎで健康を害するという、逆のことが問題になっているので、脳がカロリーを消費しすぎて飢えてしまうという状況は想像しにくいですね。(余計なカロリーを消費して健康になりたければ、身体を動かすよりも、難しいことをたくさん考えて、脳細胞を酷使し、それでカロリーを消費するほうが効率が良いことになります。ひょっとして、おうちで脳科学ダイエット、のようなメソッドは、私が知らないだけで、もうあるのかもしれませんが。)

以前の授業で気候変動についての鋭い質問があったので、大幅に加筆しておきましたが、地球の気温が下がり、寒冷化して環境が厳しくなったのを乗り越えるために、大きな脳が進化してきた、という理由もありそうです。

(上記のリンクには、すべて目を通してください。画像が表示されない場合は、報告してください。)



CE2020/07/05 JST 作成
CE2020/07/06 JST 最終更新
蛭川立