【講義ノート】「人類学B」2020/10/05

人類学Bの講義ノートです。10月5日のディスカッションの資料です。

先週は、原始的な生命から人間への進化をざっと振り返りましたが、今週は、アフリカで誕生したホモ・サピエンスが、どのように地球上の各地に移住していったかという歴史をたどります。

近年は、遺伝子(〜DNA)の分析で、人類の系統関係はかなりはっきりわかってきました。「遺伝子からみた人類の系統関係」【必読】に書いたとおりですが、とくに母→子へしか伝わらないミトコンドリアのDNAの分析と、父親から息子へしか伝わらないY染色体の分析によって、人類の移住、拡散のルートが、かなり明らかになってきました。

とくに、アフリカを出た人類が、どのように日本まで辿りついたかは「遺伝子からみた日本列島民の系統」【必読】に書きました。上記二つの記事は「蛭川研究室旧館」のほうにあり(サイトに入るのに秘密の数字を入力する必要があります)、内容にも重複するところもあり、整理して「蛭川研究室新館」の資料集に移動させる予定です。

今では一万円ぐらい払うと「個人向け遺伝子解析」【今は必読ではありません、来週扱います】が受けられます。一ヶ月ぐらいで、自分の持っているゲノムを全部解読してくれます。ちなみに私は父方も母方も縄文人で、とくに母方が北インド由来という、日本人には千人に一人しかいない珍しい系統なのだそうです。ネパールあたりに行くと現地の人に溶け込んでしまうのですが、顔が似ているからでしょうか。(今は文字だけの授業で恐縮です。)



なお、遺伝子の話をするにあたっては、その科学社会学的な文脈をわきまえておく必要があります。

人種や民族によって遺伝子には違いがあります。性別によっても違いはあります。個々人にも知能やパーソナリティの遺伝的な違いがあります。これらは、人種や民族や性別にかかわらず人間はみな平等だという理念と食い違うようにとらえられます。とくに、日本のような場所にいるとわかりにくいのですが、人種や民族の問題は、グローバルには大きな問題です。そのことについて「人種・民族・文化」【閲覧推奨】に書いておきました。

人間は人種や民族や性別の違いによらず平等であり、差別されてはならない、というのが近代社会の理念です。しかし、その理念と、人種や性別による遺伝子の違いがある、という事実とは、別の問題です。前者は社会的な価値に関わる問題であり、後者は客観的な事実にかかわる問題だからであり、これは、よくよく分けて考える必要があります。



人類の起源や日本人のルーツを探る、というのは、それ自体でも興味深い研究ですが、人間を生物としてとらえる自然人類学は、医学という応用分野にも結びついています。

つい先日、9月30日に、ネイチャーという科学雑誌に、時事的で興味深い論文が発表されました。

https://www.eurekalert.org/multimedia_ml/pub/web/12536_web.jpg
ネアンデルタール人に由来する、新型コロナウイルス感染症を重症化させるリスクを持った遺伝子の分布[*1]

新型コロナウイルス感染症は、中国(おそらく雲南省のコウモリ)から感染が始まった感染症ですが、なぜか中国や日本など、東アジア・太平洋地域では感染率・重症化率が低く、欧米や南米などでは感染率・重症化率が高いのです。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/3b/COVID-19_Outbreak_World_Map_per_Capita.svg/2880px-COVID-19_Outbreak_World_Map_per_Capita.svg.png
f:id:hirukawalaboratory:20201005095601p:plain
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の人口千人あたり感染者数(2020年9月)[*2]

日本での感染者数は、増減を繰り返してきましたが、だいたい1000人に0.1人、つまり一万人に一人の割合です。(東京はやや多目ですが。)皆さんの周囲で、人間が一万人いるとして、そのうちの一人が感染している、というぐらいの割合です。意外に少ない割合です。(しかし、これが、人口一万人ぐらいの小さな集落だと、逆に、だれか一人感染者がいる(かもしれない)という話になってしまいます。)

日本が清潔で、文化的なソーシャルディスタンスが長いからだという仮説もありますが、地域的にみると、東アジア・西太平洋地域、それから意外に熱帯アフリカでも感染が広がっていません。

逆に、感染者が多いのは、もともとイタリアから大規模な感染が始まったヨーロッパであり、そして南北アメリカ大陸です。

人類学の基礎知識ですが、国や地域を基準とした統計と、民族による統計は、区別して考えなければなりません。日本だと、日本国に住んでいる人の大多数が日本人やアイヌ民族などの先住民で、外国からの移民は少数です。ところが、アメリカ大陸やオーストラリアでは、多民族がざっと

  • モンゴロイド系の先住民族(ほとんどの国で少数民族
  • ヨーロッパ由来の「白人」
  • アフリカ由来(西アフリカから「奴隷」として連れてこられた「黒人」
  • アジア由来(最近になって増えた)

といった層をなしています。

さて今、アメリカ合衆国やブラジルで感染率が高く、1000人に10人、つまり100人に一人の割合です。日本の百倍です。二桁違います。この感染率の違いは、地理的な条件なのか、人種(コーカソイド〜いわゆる「白人」)の違いなのか、ということがわかると、この病気を治す手がかりになります。

アメリカでもブラジルでも、大統領が感染したと報じられていますが、ブラジルの大統領は回復して支持率を上げ、アメリカの大統領は選挙運動を続けられるのか、なかなかお気の毒な状況ですが、共通しているのは、二人とも「白人」だということです。政治的な背景からすれば、両国とも、社会的階層が高くない白人層を支持基盤に持つ保守政権です。これは、もともと社会的な地位が低かった「有色人種」を優遇しすぎたのではないか?という反省からきた反動であり、同じような保守化の傾向は、世界的な趨勢です。

政治の話は政治学の授業に譲るとして、話を戻しますと、この地域差または人種差については、いくつかの仮説が提唱されています。

  1. 欧米で流行しているのは、より強毒化した変異である
  2. モンゴロイドは重症化しにくい遺伝子を、コーカソイドは重症化しやすい遺伝子を持っている
  3. 日本人はヨーロッパ人よりも清潔好きで、もともと「ソーシャルディスタンス」が「長い」(しかし、他の東アジア人は?)
  4. 中国を中心とする地域では、すでに同種異株のSARS(「旧型」コロナウイルス感染症)が流行したため、免疫を持っている人が多い
  5. BCGの接種をした人は、新型コロナウイルスに対する免疫も持っている

冒頭で紹介したネアンデルタール人由来遺伝子の研究は、以上の(2)の仮説を裏づけるものです。

ただし、上記の仮説は互いに背反なものではなく、複数が関与している可能性もあります。人種よりも地域の偏りが大きいとなると、仮説(4)が有力になります。17年前に中国でSARS騒動に巻き込まれ、発熱し、感染したかどうかは不明なまま、日本に送り返されてきた私としては、もっとも気になる仮説です。2003年、中国で雲南省少数民族の社会を調査していたことについては「2003年、SARS流行下、中国での調査記録」【もう読んだという人は、見なくてもよいです】に長い冒険旅行の話を書きましたが、雲南省少数民族の「通い婚」などの話は、また来月ぐらいにお話します。

ネアンデルタール人は、ヨーロッパから西アジアにかけて住んでいました。その後、アフリカから移住してきた現生人類、ホモ・サピエンスと交雑しながら、滅んでいったと考えられています。現代人の遺伝子の中にも、ネアンデルタール人に由来する遺伝子がすこしだけ含まれているのですが、その割合は、ヨーロッパから西アジアにかけての地域に多いのです。(15世紀以降、南北アメリカ大陸などに世界中に移住したヨーロッパ人も含みます。)この三種類の人類の系統関係は「現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人 ーホモ族の三亜種?ー」【関心があればお読みください】に書きました。

ただし、これはあくまでも仮説です。しかし、大昔のネアンデルタール人の遺伝子が、現代の世界で起きている大問題と、意外なところでつながっているというのは、興味深い視点です。



さて、ウイルスとはなにかというと、遺伝情報を担っているRNAやDNAのような分子であり、それが「感染」するということは、個体間で遺伝子が「水平伝播」することです。

ふつう、遺伝情報は、親から子へ、精子や卵の中にあるDNAを介して伝わっていきます。これを「垂直伝播」といいます。

そういう、遺伝情報の伝播という視点からすると、遺伝子は、親から子だけではなく、ウイルスを介して、ある人から他人へ、あるいはコウモリのような他の動物から人間へも伝播しているわけです。

というところで「ウイルス進化論」【閲覧推奨】というページを見てください。

ウイルスというと、まずは「病原体」というイメージですが、それは、病気を引き起こすウイルスの存在が気づかれやすいからで、じつは、病気を起こさないウイルスのほうがたぶん、ずっと多く、日々、色々な人(や、その他の動物)の間で「感染」つまり「水平伝播」していると思われます。「思われます」などと曖昧なことしか言えないのは、じっさいには、病気を起こすウイルスを見つけて、それを退治するほうが緊急課題ですから、無害な(あるいは有益な?)ウイルスが、どれぐらい存在し、感染しているのかについては、ほとんど調べられていないからです。

しかし、ウイルス進化論の中の図にあるように、ヒトのゲノム(人間が持っているDNAの遺伝情報)の中で、じっさいに形質を発現させている、意味のある領域(エクソン)は、そのうちの1%ぐらいしかない、ということは、以前から知られていました。残りの99%は正体不明だったのですが、どうやら、半分以上が、ウイルスとトランスポゾン(同じ個体の内部で動き回るウイルス)だということがわかってきました。

いま、一人ひとりが持っている遺伝子、これは両親から受け継いだものだけではなく、ウイルスの感染によって受け継いだものも、かなりの割合で含まれているのかもしれません。「かもしれません」というのは、これもまた、まだ研究が進んでいないからです。

ウイルス進化論のページの中段には、性行為感染症ウイルスの話を書きました。性行為感染症というのも、まずは、感染させない、しないことが大事、という医学的な問題ですが、これも、進化論的な視点から考えることができます。

もちろん、性行為は、男女、雌雄の遺伝子が、精子と卵を通じて、次世代に引き継がれる、そういう場ではあるのですが、霊長類の社会進化は、また後日扱いますが、ヒトやボノボは、排卵期以外、妊娠しやすい時期以外にも盛んに交尾します。その意味としては、雌雄のコミュニケーションだろうという社会的な仮説が有力です。しかし、それが、ウイルスの感染の場面でもあるのも事実です。ここで「感染」というと病気のことを考えますが、じっさいには病気を起こさない無害なウイルスも「水平伝播」しているものと考えられます。

水平伝播しながら進化してきたウイルスの例として「HTLV-1(ヒトTリンパ好性ウイルス/ヒトT細胞白血病ウイルス1型)」を挙げておきました。このウイルスの分布を見ると、縄文人、その末裔であるアイヌや沖縄の人たちが、アフリカ由来の非常に古い遺伝子を持っていることがわかります。

余談のほうが本題より長くなってしまいましたが、もうひとつ、ウイルス進化論のページの下のほうに、ウイルスと脳の共進化という話を書いておきました。おそらくウイルスの大半は無害なものですが、病気を起こす有害なウイルスもいるいっぽうで、進化を引き起こす有益なウイルスもいるはずです(有益と有害を兼ねているものもいるでしょう)。

その中でも興味深いのは、脳の働きにかかわる遺伝子が、ウイルスを介して伝播しているという研究です。病気を引き起こすウイルスがいる一方で、大ざっぱに言うと、ですが、感染すると頭が良くなるウイルスもいるかもしれない、という話です。

精神病を引き起こすウイルスがいるのではないかという研究がある一方で、精神病的な素因が創造性の発露につながるという側面もあります。天才と狂気との関係は、かねてより議論されてきたことです。

というところで、来週は、遺伝子がどのように人間の性格や精神疾患とかかわっているか、というところに、話をつなげていきます。

(5日のディスカッションまでに、まだ加筆修正するかもしれませんが、おおよそは以上のような内容で、事前に目を通しておいてください。)



CE2020/10/03 JST 作成
蛭川立