【講義ノート】「身体と意識」2020/09/25

「身体と意識」の、第一回の講義ノートです。

秋学期の「身体と意識」は、春学期の「不思議現象の心理学」と、別の科目ですが、セットでも、より理解が深まります。

「不思議現象の心理学」では、客観的な不思議現象を扱いますが、「身体と意識」では、夢や瞑想、臨死体験など、主観的な不思議体験を扱います。

人間の意識は複数の状態をとりうる、そして、意識の状態が変わると、それに対応して、まったく異なるリアリティが体験される、という内容がテーマなのですが、さて、これだけ読んだのでは、抽象的すぎてよくわからないかもしれません。



通常の、ふつうに目覚めていると思っている意識状態とは別の意識状態を「変性意識状態」といいます(→「意識の諸状態」【必読。リンク先に教材があります】)

いちばんわかりやすいのは、眠っているときに見る夢です。夢は、幻覚だともいえますが、夢の中にいるときには、夢の世界が現実だと思っています。

ということは、いま「目覚めている」と思って経験している世界も、じつは、夢なのかもしれません。次の瞬間には、はっと目がさめて、布団の中にいる自分に気づくかもしれない、という屁理屈も成り立ちますが、古来、とくに東洋思想では、こういう「屁理屈」が、真面目に議論されてきました(→「胡蝶之夢」【必読。リンク先に教材があります】)

私たちは、毎日、三分の一の時間を、この日常世界とは別の世界で暮らしています。あまりにも当たり前のことなので、それを、わざわざ幻覚などとは言いません。一日の三分の一の時間、幻覚を伴う意識喪失状態ですごすのは病気だから、治そうということにもなりません。

夢以外にも、異なる意識状態はあります。たとえば、起きている状態でも、目を閉じれば、目の前は真っ暗になります。目をつぶったままの状態で、しかも眠ってしまわなければ、睡眠とも覚醒とも違う意識状態になります。こういう状態を、意図的に起こすものに、ヨーガや坐禅などの瞑想法があります。

人が死に瀕すると、明るいお花畑のような世界を見るといいます。臨死体験というものです。死んだ後には、そういう、天国に行くのかもしれません。ただ、死に瀕して戻ってきた人から話を聞くことしかできないので(最後に自分が逝くとき以外は)、それは確かめようがありません。

そう言っている私じしんは、もちろん死んだことはありませんし、幸い、死にかけたこともありません。しかし、病気になって熱を出すと(→「SARS騒動下の中国で原因不明の発熱」「入院中の発熱(おそらくインフルエンザの院内感染)」)臨死体験者が報告するような、心地よい光の世界を体験することがあります。

夢は、毎日見るものですし、死に瀕した人は、臨死体験をするといいます。その他にも、精神に作用する薬物を摂取したり、瞑想などの訓練によって、また違う状態の意識を能動的に体験することもできます。



わざわざ努力してまで幻覚など見なくてもよいのではないか、そんな研究をして何の役に立つのか、と思われるかもしれません。知的関心ということもありますが、しかし、実用的な研究でもあります。

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意識状態の「地図」

リンク先の教材にも書きましたが、物理的、地理的な比喩でいえば、いま、日本で生まれ、日本で育ち、もっぱら自宅と学校や職場の往復をして、そして日本で死んでいくのに、とくに問題はありません。睡眠と覚醒を繰り返しながら、一生を終えるのと同じことです。(死後の世界のことは、わかりませんが。)

しかし、海外旅行をすることもできます。留学することもできます。海外に移住することもできます。(すでに、海外から留学に来ている人も多いでしょうし、大学で勉強するために、実家を離れて東京に移住してきた人もいるでしょう。)

なぜ、そうするかというと、視野が広がるからです。いままで知らなかったことが体験できるだけではなく、自分が生まれ育ったところに戻ってきた後も、それまでの日常生活よりも視野が広がった状態で暮らすことができます。

アメリカやオーストラリアなどの多民族社会や、あるいは、南太平洋やアマゾンの先住民族の社会で暮らしてみると、こんなふうにたくさんの民族が共存しているほうが世界の現状なのか、こんなふうに自然の中でゆったりと暮らすことのほうが、人間ほんらいの生き方なのではないか、などと考えさせられます。とくに、日本の都市部のような社会で生まれ育った私のような人間には、それはとてもよい体験でした。(それで、文化人類学という学問に惹かれていったのですが、それはまた人類学の授業でお話しています。)

同じように、瞑想や精神展開薬(宗教的体験を引き起こす向精神薬)が見せてくれる世界は、こんなに素晴らしい世界があったとは、こちらのほうが「ほんとうの世界」であって、いままで、これが唯一の現実だと思っていた、普通に目覚めている世界のほうが、じつは不完全な世界だったのではないか、と思うことも、よくあります(→「資料『宗教的経験の諸相』」【必読ではありませんが、おすすめです】)。

だからといって、そちらの世界に行ったきりになれば良いかどうかは、わかりません。しかし、そういう、いわば宗教的な世界を体験してから、あらためて日常世界に戻ってくると、日常世界の見えかたも変わります。

また、むやみやたらに外国に行けばいいというものでもありません。あらかじめ地図を見て予習しておいたほうがいいでしょうし、一人で行くよりは、経験のある人といっしょに行ったほうがいいでしょうし、日本にいたのでは考えられないような犯罪にあったり、病気になったりするかもしれません。

自分の意志で行かなくても、たとえば仕事で、中国へ出張したり、駐在したりする必要があって、嫌でも行かなければならない場合はまた、意味合いも違うでしょう。



事故で行ってしまう、という可能性もあります。へんな比喩ですが、たとえば沖縄近海で船に乗って魚を捕っているうちに、なぜか尖閣諸島のあたりに流されてしまって、必要に迫られて島に上陸する、といった可能性を考えることもできます。この場合、捕まえられて、中国に連れて行かれるかもしれませんし、場合によっては、帰れなくなってしまうかもしれません。

自分の意志で、地図を見ながら航海するのなら、同じルートを引き返せば帰れますが、台風で流されてしまった場合には、帰り道がわからなくなってしまい、難破してしまうかもしれません。

そういう場合にも、たとえば、昔の人なら、星を見て今いる場所を確かめたりする方法が必要だったでしょうし、いまならGPSを忘れずに持っていくといった、そういう知識も必要になります。



だからこそ、この「身体と意識」の授業が、実用的な情報としても、役に立つと、役に立つような内容にしたいと思っています。

あるいは、今後、バーチャル・リアリティ、VRの技術が発展していくでしょう。VRのゴーグルをつけてゲームなどしたこともある皆さんも多いかと思いますが、私は、はじめてVRの世界に入ったときには、そのリアルさに驚いたものです。

振りかえれば、テレビや映画も、VRの一種です。白いスクリーンや液晶モニタの背後に、風景があって人間がいるという「幻覚」を楽しんでいるわけです。

幻覚ではありませんが、インターネットを通じてオンラインでコミュニケーションがとれるようになったのも、電話という技術の延長線上にあります。

ほかの社会活動が正常に戻りつつあるのに、大学が閉鎖されたままなのは、おかしいと思う皆さんも多いでしょう。しかし同時に、大学には、遠隔通信ができる技術があり、いま、新しい技術の実験をしているという側面もあります。新型コロナウイルスの流行が沈静化しても、インターネットの活用は、逆戻りせず、むしろ、より新しい日常へと進歩していくでしょう。

意識状態の研究は、これからの情報技術とも密接にかかわっている、未来的なテーマです。



CE 2020/09/24 JST 作成
蛭川立