【講義ノート】「身体と意識」2019/11/22

(先週、11月15日は休講にさせていただきました。)前回に引き続き、ブログ上の記事「輪廻と解脱」を参照しながら、NHKスペシャルチベット死者の書』の映像を紹介していきたい。中世のチベットで書かれた仏教経典に、体外離脱体験や平安な光の体験など、現代の臨死体験者が報告するのと似たような経験が記述されているところが興味深い。

浄土信仰

仏教の歴史の中では阿弥陀如来や浄土信仰は西暦2世紀の北インドで盛んになったと考えられている。「阿弥陀」はamitābha(限りない光)、amitāyus(限りない寿命)の音訳で、「無量光」「無量寿」とも意訳される。

日本では平安時代の後期、貴族のあいだで流行した浄土教が、鎌倉時代には浄土宗、浄土真宗時宗といった宗派によって思想的に深められ、広く一般に普及した。しかし、とりわけ大衆化した浄土真宗の世界観は、日本の風土に合うようにローカライズされ洗練され、インド的、中央アジア的な来世への信仰という側面は薄れたともいえる。

インドから中国に伝わったとされる『浄土三部経』や日本の『往生要集』などの文献には、臨死体験に似た世界だけでなく、死にゆくプロセスで浄土のイメージを作り出す瞑想法までもが記されている。来迎図など極楽浄土の姿を描いた絵画も多く残されており、敦煌莫高窟平等院鳳凰堂などでは描かれた当時の鮮やかな色彩が復元されている。

https://hirukawa-classes.hatenablog.jp/entry/2019/11/15/011231
敦煌莫高窟は遺跡として整備され、管理されている。内部で撮った写真のフィルムは警官に没収された。(1999年)

中有(バルドゥ)

また、古代インド・仏教的世界観では、死後、肉体から離れた霊魂がまた新しい肉体に戻ってきて再生するというプロセスも、現実の体験として語られる。ただし、この世界観においては、死後の世界が「実在」するのだとは考えない。睡眠時の夢が「現実のように体験される幻覚」であるのと同様に、死んでから再生するまでの中有(チベット語ではバルドゥ)もまた「現実のように体験される幻覚」であり、さらに生まれてから死ぬまでの生活もまた「現実のように体験される幻覚」であり、つまりはすべてが「現実のように体験される幻覚」だという、一見、常識に反するようだが、論理的には一貫した世界観になっているというのが特徴である。



2019/11/15 JST 作成
2019/11/21 JST 最終更新
蛭川立