【講義ノート】「身体と意識」2020/09/25

「身体と意識」の、第一回の講義ノートです。

秋学期の「身体と意識」は、春学期の「不思議現象の心理学」と、別の科目ですが、セットでも、より理解が深まります。

「不思議現象の心理学」では、客観的な不思議現象を扱いますが、「身体と意識」では、夢や瞑想、臨死体験など、主観的な不思議体験を扱います。

人間の意識は複数の状態をとりうる、そして、意識の状態が変わると、それに対応して、まったく異なるリアリティが体験される、という内容がテーマなのですが、さて、これだけ読んだのでは、抽象的すぎてよくわからないかもしれません。



通常の、ふつうに目覚めていると思っている意識状態とは別の意識状態を「変性意識状態」といいます(→「意識の諸状態」【必読。リンク先に教材があります】)

いちばんわかりやすいのは、眠っているときに見る夢です。夢は、幻覚だともいえますが、夢の中にいるときには、夢の世界が現実だと思っています。

ということは、いま「目覚めている」と思って経験している世界も、じつは、夢なのかもしれません。次の瞬間には、はっと目がさめて、布団の中にいる自分に気づくかもしれない、という屁理屈も成り立ちますが、古来、とくに東洋思想では、こういう「屁理屈」が、真面目に議論されてきました(→「胡蝶之夢」【必読。リンク先に教材があります】)

私たちは、毎日、三分の一の時間を、この日常世界とは別の世界で暮らしています。あまりにも当たり前のことなので、それを、わざわざ幻覚などとは言いません。一日の三分の一の時間、幻覚を伴う意識喪失状態ですごすのは病気だから、治そうということにもなりません。

夢以外にも、異なる意識状態はあります。たとえば、起きている状態でも、目を閉じれば、目の前は真っ暗になります。目をつぶったままの状態で、しかも眠ってしまわなければ、睡眠とも覚醒とも違う意識状態になります。こういう状態を、意図的に起こすものに、ヨーガや坐禅などの瞑想法があります。

人が死に瀕すると、明るいお花畑のような世界を見るといいます。臨死体験というものです。死んだ後には、そういう、天国に行くのかもしれません。ただ、死に瀕して戻ってきた人から話を聞くことしかできないので(最後に自分が逝くとき以外は)、それは確かめようがありません。

そう言っている私じしんは、もちろん死んだことはありませんし、幸い、死にかけたこともありません。しかし、病気になって熱を出すと(→「SARS騒動下の中国で原因不明の発熱」「入院中の発熱(おそらくインフルエンザの院内感染)」)臨死体験者が報告するような、心地よい光の世界を体験することがあります。

夢は、毎日見るものですし、死に瀕した人は、臨死体験をするといいます。その他にも、精神に作用する薬物を摂取したり、瞑想などの訓練によって、また違う状態の意識を能動的に体験することもできます。



わざわざ努力してまで幻覚など見なくてもよいのではないか、そんな研究をして何の役に立つのか、と思われるかもしれません。知的関心ということもありますが、しかし、実用的な研究でもあります。

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意識状態の「地図」

リンク先の教材にも書きましたが、物理的、地理的な比喩でいえば、いま、日本で生まれ、日本で育ち、もっぱら自宅と学校や職場の往復をして、そして日本で死んでいくのに、とくに問題はありません。睡眠と覚醒を繰り返しながら、一生を終えるのと同じことです。(死後の世界のことは、わかりませんが。)

しかし、海外旅行をすることもできます。留学することもできます。海外に移住することもできます。(すでに、海外から留学に来ている人も多いでしょうし、大学で勉強するために、実家を離れて東京に移住してきた人もいるでしょう。)

なぜ、そうするかというと、視野が広がるからです。いままで知らなかったことが体験できるだけではなく、自分が生まれ育ったところに戻ってきた後も、それまでの日常生活よりも視野が広がった状態で暮らすことができます。

アメリカやオーストラリアなどの多民族社会や、あるいは、南太平洋やアマゾンの先住民族の社会で暮らしてみると、こんなふうにたくさんの民族が共存しているほうが世界の現状なのか、こんなふうに自然の中でゆったりと暮らすことのほうが、人間ほんらいの生き方なのではないか、などと考えさせられます。とくに、日本の都市部のような社会で生まれ育った私のような人間には、それはとてもよい体験でした。(それで、文化人類学という学問に惹かれていったのですが、それはまた人類学の授業でお話しています。)

同じように、瞑想や精神展開薬(宗教的体験を引き起こす向精神薬)が見せてくれる世界は、こんなに素晴らしい世界があったとは、こちらのほうが「ほんとうの世界」であって、いままで、これが唯一の現実だと思っていた、普通に目覚めている世界のほうが、じつは不完全な世界だったのではないか、と思うことも、よくあります(→「資料『宗教的経験の諸相』」【必読ではありませんが、おすすめです】)。

だからといって、そちらの世界に行ったきりになれば良いかどうかは、わかりません。しかし、そういう、いわば宗教的な世界を体験してから、あらためて日常世界に戻ってくると、日常世界の見えかたも変わります。

また、むやみやたらに外国に行けばいいというものでもありません。あらかじめ地図を見て予習しておいたほうがいいでしょうし、一人で行くよりは、経験のある人といっしょに行ったほうがいいでしょうし、日本にいたのでは考えられないような犯罪にあったり、病気になったりするかもしれません。

自分の意志で行かなくても、たとえば仕事で、中国へ出張したり、駐在したりする必要があって、嫌でも行かなければならない場合はまた、意味合いも違うでしょう。



事故で行ってしまう、という可能性もあります。へんな比喩ですが、たとえば沖縄近海で船に乗って魚を捕っているうちに、なぜか尖閣諸島のあたりに流されてしまって、必要に迫られて島に上陸する、といった可能性を考えることもできます。この場合、捕まえられて、中国に連れて行かれるかもしれませんし、場合によっては、帰れなくなってしまうかもしれません。

自分の意志で、地図を見ながら航海するのなら、同じルートを引き返せば帰れますが、台風で流されてしまった場合には、帰り道がわからなくなってしまい、難破してしまうかもしれません。

そういう場合にも、たとえば、昔の人なら、星を見て今いる場所を確かめたりする方法が必要だったでしょうし、いまならGPSを忘れずに持っていくといった、そういう知識も必要になります。



だからこそ、この「身体と意識」の授業が、実用的な情報としても、役に立つと、役に立つような内容にしたいと思っています。

あるいは、今後、バーチャル・リアリティ、VRの技術が発展していくでしょう。VRのゴーグルをつけてゲームなどしたこともある皆さんも多いかと思いますが、私は、はじめてVRの世界に入ったときには、そのリアルさに驚いたものです。

振りかえれば、テレビや映画も、VRの一種です。白いスクリーンや液晶モニタの背後に、風景があって人間がいるという「幻覚」を楽しんでいるわけです。

幻覚ではありませんが、インターネットを通じてオンラインでコミュニケーションがとれるようになったのも、電話という技術の延長線上にあります。

ほかの社会活動が正常に戻りつつあるのに、大学が閉鎖されたままなのは、おかしいと思う皆さんも多いでしょう。しかし同時に、大学には、遠隔通信ができる技術があり、いま、新しい技術の実験をしているという側面もあります。新型コロナウイルスの流行が沈静化しても、インターネットの活用は、逆戻りせず、むしろ、より新しい日常へと進歩していくでしょう。

意識状態の研究は、これからの情報技術とも密接にかかわっている、未来的なテーマです。



CE 2020/09/24 JST 作成
蛭川立

【講義ノート】人類学B 2020/09/21

さて、人類学Bです。春学期の人類学Aから続けて履修している人もいるでしょうし、これが最初の人類学だという人もいるでしょう。

人類学って何?人類の研究?と、なかなかわかりづらいところがあるのですが、ひとつの理由は、高校までの科目にないことです。歴史学とか、生物学とか、数学とか、それは、高校までの科目にありますが、人類学はありません。

そこで、冒頭から「人類学とは何か?」ということになります。この、リンク先のページを読んでください。

人類学Aと人類学Bは独立の科目ではありますが、同じ教員の担当であり、どちらも最初に「人類学とは何か」という定義から講義を始めています。この授業では、人類学とは、人間やその社会を、自然科学と人文・社会科学の両面からとらえる学問だという立場で進めていきます。


今後の授業の進めかたですが、この、毎週の講義ノートから、教材ページへのリンクを張ります。それを、読んでください。できるだけ前日までには講義ノートを準備しておきたい、と思いつつ、うっかり、夏休みボケしていました。すみません、初回授業の前夜に慌ててこの文章を書いていますが、9月21日、敬老の日で祝日なのですが、初回の講義です。

今年度はオンライン授業ということで、試行錯誤が続いています。この授業計画も、かなり行き当たりばったりで、試行錯誤ですが、シラバス通りに進まないのも、ライブ感があっていいものです。しかし、授業に必要な教材、他の授業と重複するものも含めて二百ぐらいの記事を書きためてきました。その教材へのリンクの張りかたを試行錯誤するだけで、授業の内容はしっかりできあがっています。

その他、授業の受講のしかた、成績評価など、よくわからないことがあれば、なんでも聞いてください。ただし、よくある質問については「蛭川担当授業FAQ」のページを作っておきましたので、まずそちらに目を通してください。

講義というのは、演繹的に概念の説明から始めたほうが体系的なものになるのですが、帰納的に具体例から入ったほうが初学者にはわかりやすい、というジレンマがあります。いきなり「人類学とは何か?」という大前提から入っていくと同時に、できるだけ具体的に、今ここで起こっていることとも結びつけながら、帰納と演繹を行ったりきたりしながら、お話を進めていきます。

人類学の授業に対するコメントに、もっと先生の冒険談が聞きたい、というものがありました。しかし、学者は冒険家とはちがい、危険を冒すのは目的ではなく、むしろ、いかに安全に調査を進めるために危険を回避するか、そちらのほうに醍醐味があります。

個人的には、そもそもが軟弱者ですから、冒険などといえるほどの冒険はしたことはありません。と、これは春学期の人類学Aの最初にもお話したことですが、しかし、17年前に中国で2003年の春にSARS騒動(そして2013年の鳥インフルエンザ問題)に遭遇してしまったことは、いままでの調査旅行の中では、2001年9月11日の同時多発テロ事件のときに南米にいたことと同じか、それ以上の「冒険」でした。とはいえ、敢えて危険な場所に行ったわけではありません。安全だろうと思って行ったところで、突発的な事件に巻き込まれてしまったのです。

そもそも大学は閉鎖されたままで、授業がずっとオンライン方式だというのも、新型コロナウイルス感染症のウイルスが流行したことが原因です。しかし、これは、2003年に、中国で流行した、SARS、いわば旧型コロナウイルス感染症の「第二波」です。新旧いずれのコロナウイルスも、大元をたどれば、じつは、中国の市場に落ちていたコウモリの糞である可能性が高いのです(→「SARS-CoV-2の起源と感染源」【参考】)。中国の屋台で謎の珍獣が売られている、などというのは、どこか遠くの世界の出来事かと思いきや、それが全世界を揺るがす大問題の元凶になってしまうのですから、なんともグローバルな不条理です。しかし、その不条理さに理性的に向かい合うことができるのも人類学の本領です。

中国で少数民族、ナシ族・モソ人の社会に滞在し、調査中にSARS騒動に巻き込まれてしまったということについては、春学期の授業のときにも繰り返しお話をしましたし、詳しくは「2003年4月、SARS流行下、四川省・雲南省における調査記録」【参考】という長大な物語を読んでいただくとして、さて、話を戻します。

とにかく、人類学的調査というのは、海外の辺境に不思議なものを求めて旅をして、物珍しい土産話を持ち帰るだけでは終わりではないのです。しばらく海外にいて、ひさしぶりに日本に戻ってくると、ふだん暮らしている平穏な日常の中にも、不思議なものがたくさんあることに気づきます。[文化]人類学は異文化理解の方法であり、また同時に自文化を映す鏡である、という所以です。


いっぽう、自然人類学の基本は進化論であり、とくに生物学、さらには遺伝学と脳神経科学が重要になってきます。

ウイルスとの戦い、というのは比喩的に理解しやすい表現ですが、ウイルスとはいわば純粋な遺伝情報であり、ウイルスに目的があるとすれば、それはただ人間から人間へ、あるいは他の動物との間を移動(感染)しながら、自らの遺伝情報のコピーを増やすことであり、人間など宿主を攻撃するという目的を持っているわけではありません。ウイルスが自身の遺伝情報をコピーするために宿主の体を借りるために、たまに宿主が病気になることもあるということです。

ウイルスにもDNAを持つものもあれば、RNAを持つものもあります。新型コロナウイルスは1本鎖RNAです。

遺伝情報を担う分子、DNAやRNAは、親から子へと受け継がれていきますが、いっぽうで、ウイルスが感染するという形でも、人から人へ、あるいはコウモリから人へ、等々、違う種の生物にも遺伝情報は伝わっていきます。これを「ウイルス進化論」【参考】と呼んだりもしますが、原始的な生物から人間が進化してきたプロセスで、あるいは、アフリカで誕生したホモ・サピエンスが日本まで移動してくるプロセスで、ウイルスの感染による遺伝情報の水平伝播が重要な役割を果たしてきた、という研究が進んできています。

講義では、人類の起源と進化、進化論と遺伝学の基礎、サルとヒトの社会の進化、という自然人類学的なテーマから、始めていきます。

地球上に生物が誕生したのが40億年前で、今は数百万種類に分岐しているといいます。ヒトは、そのうちの一種類です。ヒト(Homo sapiens)が生物界全体の中で、どういう位置にあるのか、「生物の系統分類と人間の位置」【推奨】と「サル目(霊長類)の進化」【推奨】を、数秒でも、ざっと見てください。さらに、講義は「人類の進化と大脳化」【参考】へと進んでいくのですが、これはまた来週以降に詳しく解説します。

授業の後半では文化人類学社会人類学的なテーマへと移行していきます。性行動・配偶システム、親族と婚姻、そして政治、経済、宗教といった問題まで、話を進めていく予定です。

2003年のSARS流行事件のときには、中国の南西部、雲南省少数民族モソ人の社会で調査をしている最中に、謎の発熱で寝込んでしまいました。原因はいまだに謎です。

モソ人の社会には、独特の婚姻形態があります。夫婦(のようなもの)は同居せず、夫が妻の住居に通い続けるという、「走婚」(→走婚ー雲南モソ人の別居通い婚【参考】)という文化があります。たとえば、こうした具体的な調査事例を引き合いに出しながら、講義を進めていきます。



ところで、掲示板方式の授業のほうが、たとえ実名であっても、周囲に人がいることを気にせず発言できるので、以外に良い、という感想がある一方で、講義をしている蛭川の姿を見たこともない、という人もいるでしょう。しかし、教材の中には、三脚を立てて自撮りした映像もあり、調査地の中に私が出現して、現地から講義する、という動画も出てきます。

たとえば、以下の動画は、ブータンの春祭り「ツェツュ」の様子です。


Zhemgang Tsechu 2550/2007

ブータンのマジョリティであるチベット人も、中国南西部の雲南モソ人も、チベット系民族です。チベット系の社会は、婚姻の仕組みが独特である社会が少なくありません。ブータンでは、姉妹型一夫多妻婚が行われていました。私がブータンを訪問したとき、先代の国王には、四人の妻がいました。それは、王が強い力を持っているとか、魅力的だからだというよりは、四人の妻が姉妹だったからです。一人の男性が複数の女性を妻にする、というよりは、四人姉妹が、一人の男性をお婿に迎え、共有(?)するという文化です。

といって、繰り返しですが、人類学は、辺境の民族の変わった習慣を紹介するのが目的ではありません。そうした制度にも、それなりの理屈があるはずで、逆に、夫婦というのは一夫一妻制で、同居するのが当たり前だという、その当たり前であることの根拠を問う、自明な社会のしくみをあらためて問う、というのが、人類学の面白味でもあります。



さて、この文中からリンクしている教材については、

  • 【必須】→ぜひ読んでほしい
  • 【推奨】→できれば読んでほしい
  • 【参考】→余裕があれば読んでほしい

の三段階に分けました。

リンク先のページの先に、さらにリンクがありますが、これは、どこまでも辿っていけるものです。関心のあるところに飛んでみてください。



CE2020/09/20 JST 作成
CE2020/09/20 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】人類学A 2020/07/27

オンライン方式で進めてきた人類学Aの授業ですが、今回が最終回となります。

2003年の旧型コロナウイルスSARSの流行事件のときに(当時の中国政府が感染拡大の情報を公開していなかったという理由もあるのですが)たまたま中国の少数民族の村で発熱して倒れ(いまだに原因は不明なのですが)、そしてこの春に同種のウイルスの第二波が中国からやってきたということで、そちらのほうの議論にずいぶんと時間をかけてしまいました。

しかし、いま目の前にある問題を考えることは重要ですが、大元をたどると、それはコウモリなどの珍獣が珍重され、市場で売られているというところから始まっているので、なぜ中国で珍獣が珍重されるのかという文化を理解し、衛生状態を改善しなければ、また同じ病気の第三波、第四波が繰り返されてしまうでしょう。

そのようなこともあり、授業が後へ後へとずれ込んでしまいましたが、人間の精神文化の中でも、もっとも抽象度が高い、宗教の話をして、この授業を終えます。

教材へのリンクですが、年度初めに発表した講義計画(→「人類学A 西暦2020年度」)の最後の3週間ぶん、7月13日から27日までが残ってしまいました。日本の古代の文化を残す沖縄、神話への構造主義的アプローチなど、それぞれに興味深いテーマではありますから、関心があれば、ぜひリンク先の記事を読んでください。そして、質問があればディスカッションの中で聞いてください。

しかし、私じしんのフィールドワークの体験談としても、タイで一時出家した話(→「タイでの出家」)を中心にして議論できればと思います。まずはこの記事を読んでください。出家したとはどういうことか?と思われるかもしれませんが、それはここでお話しすると長くなることでもありますから、ぜひ本文を読んでください。

この授業では、他の動物とは違う、人間の特徴として、芸術や宗教のような精神文化について議論してきました。精神文化の中でも、もっとも物質的な世界から離れた、抽象度の高い文化が宗教です。人間は宗教という文化を持つという点において、他の動物とは区別される、といっても過言ではありません。

ただ、日本(とくに本土)では、宗教というと、生活とはすこし離れた場所にあります。それゆえ「宗教」という言葉の意味がわかりにくいところがあります。

初詣は神社、結婚式は教会、お葬式はお寺、といった特別なイベントとは関係していますが、宗教という思想の体系が、社会生活の中に組み込まれていたり、あるいは政治的な力を持ったり、日本では、そういうことが、あまりありません。それは、世界の他の地域と比べても、特殊なことです。組織的な宗教が政治的な権力と結びつくといったことがなく、思想の自由があることは、むしろ現在の日本の良いところでもあります。

宗教というものには二つの側面があって、ひとつは共同体の中で、その構成員に対してある一定の神話(物語)をシェアするという役割です。たとえば日本でも沖縄にはそういう文化が色濃く残っています。大ざっぱな比喩でいえば、身近なところに占い師というかカウンセラーのような人たちがたくさんいて、よろずの相談をしてくれるというものです。

ふつうに宗教というと、人間の世界の外側に神様や死後の世界などの超自然的な概念があると仮定し(本当にあるのかないのかは客観的には知り得ませんが)それを信じることで人間の生きる意味や社会的な規範を提供するという文化のことです。

それから、いっぽうでは、インドや仏教での瞑想のように、社会というよりは、自分じしんの心を見つめる、という、また別の側面もあります。それを宗教という言葉で呼ぶべきかどうかはともかく、それが人間の精神文化のもっとも顕著な部分だと思います。つまり、人間は他の動物と違い、自分じしんの生きる意味を考えながら生きる存在です。しかも、瞑想やヨーガという実践は、自分じしんの心を自分じしんで自己言及的に見つめていくことで、生きていることを再確認するという、そういう作業であり、それが、大脳化した人間の精神文化の、もっとも本質的な部分であろうと考えられます。

(なお、期末レポートについては、もうすぐ課題を公表しますが、基本的な考えを問いかけるだけですから、それほど細かい心配はしないでください。)



CE 2020/07/26 JST 作成
CE 2020/07/27 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「不思議現象の心理学」2020/07/24

不思議現象の心理学の授業も最終回です。最終回は、秋学期の「身体と意識」につなげていきます。「不思議現象の心理学」と「身体と意識」は別の授業ですが、同じようなテーマを別の角度から論じます。秋学期に「身体と意識」を履修する人には、「身体と意識」の予習になるように、「身体と意識」を履修しない人には、この一回で「身体と意識」がどういう内容なのか、その要旨を概観できるように、ざっとお話します。

「身体と意識」の概要

秋学期の「身体と意識」の授業計画は、まだ正確な日程は確定していませんし、ほんとうに教室で実施できるのかも確定していませんが、内容としては「身体と意識 西暦2020年度」のページに書いたとおりで、ほぼ、その内容を扱います。

以下には具体的なリンク先を示しませんが、それぞれのテーマの内容は、上の段落にある「身体と意識」の授業計画から辿れます。

「不思議現象の心理学」のほうが、外的、客観的な不思議現象を扱うのに対して「身体と意識」のほうが、内的、主観的な不思議体験を扱います。ですから、二つの科目は、相補的です。別々に履修できる科目ですが、両方履修すると、より立体的な理解が深まるでしょう。

たとえば「幽霊」を見た、というのは、外的な現象ですが、「臨死体験」をした、というのは、内的な体験です。ある人が亡くなるときには、本人は病院で臨死体験をしており、家族や友人は自宅でその人の姿を見ているかもしれません。

意識の諸状態

内的な不思議体験と言いましたが、具体的には「変性意識状態」を扱います。「不思議」とはいいましたが、そもそも人間が「意識」を持っていること自体が「不思議」なのだということには、「不思議現象の心理学」に通底するテーマでありました。

そしてこの人間の「意識」は、複数の「状態」をとることができます。そして、それぞれの「状態」に対応した「現実」があります。日常的な「意識の状態」に対して、それ以外の意識状態を「変性意識状態」またすべての意識状態を「意識の諸状態」ということもあります。わたしたちが暮らしている現実世界は、単数ではなく、多数あるのです。

睡眠と夢

現実世界が多数あるとはどういうことなのか、抽象論が先走りましたが、もっとも身近な変性意識状態は、寝ているときにみる「夢」です。「夢」の中にいるときは、「夢」という現実の中で過ごしており、しかも、これが日常的な意識の状態だと考えながら生きています。睡眠と覚醒の中間状態でも、特殊な夢をみます。とくに入眠時にみる夢のことを、入眠時幻覚、といいます。

こうした意識の状態は、もっとたくさんあります。同じ夢でも、「これは夢ではないのか?」と気づく夢は「明晰夢」と言います。睡眠状態にあって夢をみていない状態も、ひとつの意識の状態です。主観的な意識がないので、対応する世界もありません。昏睡状態も同様です。

臨死体験

昏睡状態なら戻ってこられますが、死はどうでしょう。脳をはじめとする身体の機能が失われるのですから、死は闇でしょうか。ところが、不思議なことに、死にかけてから戻ってきた人の体験、つまり臨死体験というのですが、天国のような平和な光の世界を体験するのだそうです。しかし、これは戻ってきた人の話ですから、本当に死の先へ逝ってしまった人は、やはり暗闇の世界に行くのでしょうか。

その他の偶発的な変性意識状態

通常の覚醒状態の中でも、意識の状態は変化します。感情が変化するごとに、目の前の現実は変わります。気持ちが明るくなれば、目の前の現実も変わります。気持ちが暗くなれば、目の前の現実も暗くなります。

美的体験や宗教的体験は、覚醒状態の中で起こる、もっとも特殊な意識状態ですが、それは、近代社会においては、問題にされないか、精神疾患とみなされます。

精神疾患とはなにかといえば、ふつうに生活するのには難しい精神の状態だと定義してもよいでしょう。気持ちが明るくなりすぎれば、躁病、気持ちが暗くなりすぎれば、うつ病、あるいは不安障害などと呼ばれます。存在しないはずのものが見えたり、その声が聞こえたりすれば、それは統合失調症と診断されるかもしれません。

精神疾患とみなされそうな意識状態でも、近代社会ではむしろ望ましいものとしては、スポーツや恋愛などがあります。スポーツへの極度の集中は、「ゾーン」などと呼ばれる、下の段落で触れるような、自己催眠や瞑想のような体験を引き起こします。精神的な恋愛と肉体的な性行為は相互作用ですが、とりわけ性的な絶頂感では、宗教体験に近い体験が起こることがあります。その多くは快の体験であり、それゆえ精神疾患とはみなされません。しかし、たとえば失恋をきっかけにうつ病になるかもしれません。

催眠と瞑想

意識の状態を意識的に変えることもできます。たとえば催眠がそうです。ふつう、他人の誘導を受け、意識はあるのにまた別の意識があるような、不思議な感覚です。自己催眠や瞑想は、一人で自分の意識を変えます。

ヨーガや坐禅などを含む瞑想は、自己催眠の一種とみることもできますが、偶発的にではなく、意識的に宗教体験を引き起こすものです。瞑想を極めていくと、未来が予知できるとか、人の病気が治せるようになるとかいう話もあります。それが本当なのかは研究が必要ですが。

向精神薬

さらに、化学的な方法として、向精神薬を摂取しても意識の状態は変わります。中枢刺激薬を服用すれば、日常の意識がより明晰になります。逆に、睡眠薬を飲むと、眠ってしまいます。精神展開薬という特殊な向精神薬を服用すると、意識が明晰なまま、夢をみるような体験をします。これは、明晰夢臨死体験とも似ています。

バーチャルリアリティ

さらに人工的なものには、バーチャルリアリティーVR)があります。アナログからデジタルまで、絵画や音楽、写真や動画は、人工的なVRです。平面的なディスプレイではなく、二つのモニタを入れたゴーグルを使って、立体視ができます。これで動画を見ると、かなり現実味のある、別の現実を体験することができます。この技術は急速に進んでおり、視聴覚に関しては、現実と区別ができないぐらいのVRも開発されつつあります。

心身問題・心物問題

これは「不思議現象の心理学」の哲学的なまとめとしては、科学と非科学の境界設定問題を扱いましたが、「身体と意識」では、精神と物質、精神と身体の関係、つまり「心身問題」「心物問題」という、もうひとつの哲学的問題にまとめていきます。

臨死体験者の多くが、死後の世界をかいま見てきたと言います、肉体が死んだ後も、精神だけが生き延びるのでしょうか。それとも、それは脳が作りだしている夢のようなものでしょうか。夢は、脳が作りだしている幻覚です。もしそうなら、覚醒時に見ている世界もまた、脳が作りだしている幻覚であり、すべては幻覚だ、という理屈も成り立ちます。

夢の中では、夢の中の身体で行動します。それなら、覚醒時の身体も、覚醒という夢の中の身体かもしれません。これも屁理屈でしょうか。しかし、ゲームの中のキャラクターに自己を投影するとき、それはゲームという仮想現実の中の身体だといえます。平面的なモニタであればともかく、VRの中に没入しているときには、あたかもVRの世界で仮想の身体を持って行動しているという錯覚を感じます。しかし、その錯覚を、錯覚と言える根拠は、どこにあるのでしょう。

期末レポート

期末レポートですが、自分が体験した、身近で見聞きした(知り合いの知り合いが、という、都市伝説のような、あやふやなものは除外)不思議現象について、その内容を記述しつつ、それを論理的に解釈する、という内容です。いまこの講義ノートのページに挙げたような、主観的体験でもかまいません。客観的か、主観的かというだけで、両者は重複しています。

すでに履修した人から、あの授業は何か不思議な体験を書けば合格らしいから、楽勝だと聞いて、この科目に登録した人もいるかもしれません。だからこの科目は履修者が多いのかもしれません。しかし、そうした体験を論理的に解釈することは、かなり難しい課題です。

不思議な体験談を書いてください、と問うと、じつは多くの人が不思議な体験をしていることがわかり、驚いています。たとえば臨死体験ですが、これは子どもから高齢者まで、一般人口の5%程度が体験していると言われますが、大学生ぐらい、20歳ぐらいの年齢でも1%ぐらいの割合で体験者がいるということは、驚きです。「不思議現象の心理学」や「身体と意識」のような科目を履修する人は、不思議な体験に興味がある人なのだから、偏りはあります。しかし、履修者数が千人にもなると、大きな偏りはないといえます。

これは、調べられているようで調べられていない現象の研究にも役立ちますし、今までの授業で履修者の皆さんから聞いた体験談をもとに、次年度以降の授業にもフィードバックしていき、授業の内容も、より充実していくという仕組みでもあります。(授業の内容は、ブログ上にアップしているので、卒業してからでもアクセスできます。)

なるほど、この科目では、細かい知識を問うて、細かく点数をつけたりはしません。細かい知識というよりは、不可思議な現象を、論理的に分析していく、そういう考え方を学ぶ科目だからです。(これは、科目の種類によって違います。たとえば、語学の授業は、細かい知識を丸暗記するしかないというところがあります。なぜこの名詞が女性形なのか?男性形なのか?なぜこの動詞がこんなに不規則に活用するのか?といったことは、そういうものだ、と思って暗記するしかないのです。)

考えかたを重視する科目ですから、昨年度まではすべて記述式で行ってきましたが、履修者が千人を超え、そのこと自体はとてもありがたいのですが、ある程度は、穴埋め式、マルバツ式、といった、客観的に採点できる部分も組み合わせる方向で、問題を作成中です。



CE 2020/07/22 JST 作成
CE 2020/07/24 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「人類学A」2020/07/20

春学期人類学Aの授業も残すところあと二回となりました。しかし、前回はリンクを張った教材が多すぎたようで、今週も先週の講義ノート(→「【講義ノート】「人類学A」2020/07/13」)をもとに議論を進めていきたいと思います。

おおよその流れをふり返りますと、まず、「生物の系統分類と人間の位置」と「サル目(霊長類)の系統分類」は、なるほど、すべての地球生命は四十億年前の共通祖先から進化してきたのか、そして人間(ヒト)もまた地球上に何百万種類もいる生物の一種なのか、と、ザッと見てもらった後で「人類の進化と大脳化」を読んでください。

先週と重複しますが、人間が他の生物と違うところは、言語を持ち、道具をつくり、社会を発展させてきたことでもあるのですが、同時に、芸術や宗教といった、生物として生きていくという目的を超えた精神文化を持つということでもあります。そのことは「化石人類の物質文化と精神文化」に書いています。

先史時代の美術作品として、洞窟壁画をとりあげましたが、何万年も前から伝わる原始美術と最先端の現代美術を独自の様式で発展させてきた「オーストラリアの先住民族と現代美術」をとりあげ、そこで日本の草間彌生さんやGOMAさんの現代美術を取り上げました。さらに「精神疾患と創造性」、つまり、いわゆる狂気と天才は紙一重なのか、という話題をとりあげます。精神病というのは脳の病気で、遺伝的な要因が強い、というと、どこか差別的なニュアンスがあるかもしれませんが、脳の表層的な部分が振り切れてしまうと、脳の深層に沈んでいた原始的な創造性が噴出してくることがある、という見方もできます。

当初の講義計画で7月13日〜20日に扱う予定だった部分についても簡単に触れておきます。宗教性と精神疾患という問題です。芸術は近代社会においてはさほど変わったものだとは考えられていませんが、シャーマニズムのような「原始宗教」、つまり、神のお告げを伝えたり、霊が憑依したりという現象については、そもそも近代社会では「正常」とはみなされず、精神疾患と重なる部分が多くなります。逆にいえば、かつては社会的な意味を持っていた、憑依や呪術などが、近代社会においては「精神病」という枠組みに囲い込まれてきたのだ、と考えることもできます。

シャーマニズムアニミズム(自然崇拝)などというと、どこか原始的なイメージがあります。宗教といえば、狭い意味では、キリスト教、仏教、あるいはイスラームが代表的です。これらは世界三大宗教というもので、世界中のほとんどの地域がこの三つの宗教文化圏に分類できます。

その中では、日本は意外に特殊です。仏教や神道という宗教はあっても、社会生活を行う上での道徳的な指針のようなものを示してくれるという色彩は薄いのです。私は仏教徒ですとか、私は神道を信じています、という言い方はあまりしません。日本人の宗教文化の基本にあるのは自然崇拝と祖先崇拝です。山や岩や木へのアニミズム的崇拝、これは神道の基本にあるものですし、日本で仏教といっても日常生活レベルでは祖先崇拝と結びついています。

日本の宗教文化の原型は、沖縄にもっとも色濃く残っています。沖縄というと、日本本土からみると、半分外国のような、東南アジアのような、というイメージがありますが、じっさいには、むしろ古代以前の日本文化のルーツが存在する場所です。仏教伝来、神道の組織化以前の自然崇拝、祖先崇拝、シャーマニズムが、おそらく世界でももっとも活発に行われている場所のひとつです。

来週は、最後にひとつ、私がタイの僧院で出家したお話をしたいと思います。出家というと浮世を捨ててしまうという感じで、驚かれるかもしれませんが、同じ仏教国だと思われているタイと日本を比べると、タイでは、仏教という宗教がほんとうに日常生活の中にある、と思わされます。

ふつうの人がふらりとお寺に行って瞑想をしたり、その延長線上で、出家、つまりお寺に住み込んで読経と瞑想の日々を送るということが、ふつうに行われています。そして、またお寺を出て街に戻ったり、行ったり来たり、そういう自由度があります。仏教、とくにタイやミャンマーなどの上座部仏教では、人間の外側に存在する神様を信じるのではなく、自分で自分の心を見つめ、自分の内部に真理を見出す、と考えます。

個々人の内部に真理があり、それがすべての人間にとっての普遍的な真理でもある、という思想は、近代的な個人主義・民主主義とも整合性が高く、タイのような社会でも、社会が近代化するほどに、逆に仏教が社会と一体化され、整備されてきた、という側面もあります。

なお、試験の代わりのレポート課題については、作成中です。もうすぐできあがります。あまり些末な知識を問うような問題にはしません。どうか、もう少々お待ちください。



CE 2020/07/19 JST 作成
CE2020/07/20 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「不思議現象の心理学」2020/07/17

当初の授業計画に追いついてきました。来週の最終回は、全体をまとめつつ、秋学期の「身体と意識」の紹介をしたいのですが、今週は、まず当初の予定表で7月17日に扱う予定だった「科学と非科学の境界設定問題【必須】」を勉強してください。

女神が病気を治すと考えるのは非科学的か

今年度の授業の最初のほうで、2003年のSARS騒動で体験したことをお話しました(→「SARS流行下の中国で発熱・臨死様体験」)。中国の雲南省で熱を出して寝込んでしまい、深夜に熱にうなされていたとき、密教的な女神のヴィジョンが出現、病気を治すと告げられ、その女神と一体化する、そういう不思議な体験をしました。翌朝には、すっかり熱が下がっていました。すこし咳は残りましたが。

夢に女神が出てきたから治ったのだ、などと言えば、そんな非科学的な話があるまい、ということになります。この場合に非科学的、というのは、女神などという物質的実在は存在しない、あるいは、夢の中に出てきた女神は、夢であって、物質的身体には直接作用できない、という意味です。

けれども、女神の夢が病気を治したのかどうか、そんなことはありえない、と決めてかかるほうが、非科学的だ、ともいえます。つまり、ここでの科学とは先入観なしに、なんでも客観的にきちんと調べることだ、という意味です。この授業では、スプーン曲げやテレパシーなどの話をしましたが、ありえないと決めつけるのではなく、あるかないか、きちんと調べてみよう、それが科学的なのだ、という立場で話をしてきました。

夜の熱が、朝には下がっていたのだとしたら、それは、女神のせいなのかもしれませんし、自然治癒のせいなのかもしれません。一回かぎりのことですから、それ以上は確かめられません。しかし、多数の症例を集めれば、なにかわかるかもしれません。高熱を出したときに、いろいろな幻覚というか、不思議な夢を見る人は多いのです。神仏のような印象的な存在が出てきた場合と、出てこない場合を比較してみれば、差があるかもしれません。科学とは、そういう手続きのことであって、神仏が実在するかどうかは保留する、という立場もあります。

詳しいことは、リンク先の教材を読んでください。

パラダイムと研究プログラム

それから「パラダイム」という、科学史上の概念があります。詳しくは「『パラダイム』と『研究プログラム』【必須】」を読んでください。

科学史でよく語られるのが、天動説(地球が止まっていて、太陽や星が回っている)から地動説(地球が自転し、さらに太陽のまわりを公転している)への進歩のプロセスです。天動説という間違った説から、地動説という正しい説への進歩の歴史と理解するのが、ふつうです。

しかし、天動説であっても、計算の仕方を変えれば、天体の運動を説明し、予測できますから、天動説も間違いではないのです。地動説も間違いではありません。違いがあるとすれば、地動説のほうがずっとスッキリしたモデルですから、計算がずっと簡単になる、ということです。

また天動説のほうが、日常的な生活感覚によくなじみます。地面は平らで、太陽や月や星は、東の空から昇って、西の空に沈んでいきます。

地動説では、地球は平らなのではなく、丸いと考えます。それは、直感的に言って、非常識です。いくら遠くまで出かけても、地面はずっと平らです。いや、地球の大きさはぐるりと4万kmもあり、人間的な活動のレベルの小ささからすれば、ほぼ平らに見えます。

地動説では、地球という周径4万kmの球体が、24時間で一回転すると考えます。時速にすると、約1700kmとなります。飛行機で地球の裏側のブラジルまで行くと、地球を半周するわけですが、だいたい24時間かかります。往復だと、地球を一周するわけですから、48時間です。そうすると、地球が回転している速さは、飛行機の二倍ぐらいになります。今この地面が、飛行機の二倍の速さで動いているとは、とても思えません。非常識な発想です。地動説では、地球の重力と、遠心力が釣り合っていることによって打ち消されているから、周囲の空気もいっしょに動くから、なにも感じないのだと説明します。

そうすると、天動説と地動説のどちらが正しいとは、いちがいには言えなくなります。地動説のほうが、単純で美しいモデルで、計算もしやすいのですが、しかし、天動説のほうが、日常の生活感覚には合っているのです。

総じて科学の進歩は、日常的な生活感覚から離れていく方向で進んできました。

そうであれば、スプーン曲げやテレパシーなど、ちょっと考えて常識的にありえない、という結論には飛びつけないことになります。

日常の中の科学社会学科学史

余談ですが、天動説と地動説というと、昔の話ですし、ちょっと抽象的かもしれません。教材の中には、宗教と科学の対立や、科学と政治の関係、などについても触れましたが、いまの日本では、さいわい、科学の進歩を妨げるほどの宗教的権威もなく、政治的権力もありません。

しかし、日本での日常生活の中にも、異なる仮説が政治色を帯びることはあります。同じ現象に対して、それをより良く説明しようとしているのに、相容れない思考の体系というものがあります。

たとえば、原発事故のときに、放射性物質の安全性が問題になりました。こういう事故が起こったのは、原子力発電を進めてきた政府の責任ではないか。やはり原発は止めよう、そういう議論と、放射性物質の安全性についての議論が結びつき、政治性を帯びました。

少量の放射線を浴びるとむしろ健康になる(ホルミシス効果)という仮説もあるのですが、そうした仮説が、原発推進派に都合がよい、そもそも医学的な根拠のはっきりしない仮説だと、批判されたり、あるいは、利用されたりしました。

いま現在は、新型コロナウイルス感染症が問題になっています。原発事故に比べれば、より自然災害に近い現象なので、それほど強い政治性はありません。しかし、放射性物質は物質であり、しかも放置しておけば減っていく一方です。それに比べると、ウイルスは人間の社会活動に依存して増減しますから、感染症はより社会的な問題でもあります。

強いて二分すれば「とにかく感染を最小に抑える」というパラダイム(のようなもの)、と「社会的経済的活動を抑制をしすぎてはいけないので、多少の感染は仕方がない」というパラダイム(のようなもの)があります。

これは、なかなか同時には実現できません。よく研究し、よく話し合って、最適な妥協点を見出さなければなりません。けれども、二つのパラダイムがそれぞれの体系を作ってしまうと、話し合ってよりよいやりかたを模索していくというよりは、それぞれのパラダイムの中に入ってしまうと、そのパラダイムが当然のことのように思えてきて、それ以外のパラダイムが説明する出来事が理解しにくくなってきます。あるいは、パラダイムの外側の出来事に気づかなくなってしまいます。

下に引用したエッセイにも書きましたが(わざわざ読まなくてもかまいません)、たとえば「とにかく感染を最小限に抑える」というパラダイムから見ると、東京都で感染者数が増加している、という数字が、重大な問題となります。いっぽうで、東京都で重症患者数が減っている、という反証事例は、あまり顧みられなくなりがちです。

このままでは経済が危ない、という立場からすると、たとえば失業率と自殺率には相関があることから、2020年度の自殺者は、昨年度の2000人から、5000人増の、25000人(1日あたりの死亡数は約70人)に増加する、という計算もあります。これは、かなり深刻な数字ですが、そちらのほうばかりを見ていると、想定外の感染爆発が起こり、何万人も、何十万人もの犠牲者が出る、という可能性のほうを軽視してしまいがちです。

そして今後も科学的な研究が進めば、ワクチンや治療薬の開発だけでなく、もっと画期的な発見が起こり、二つのパラダイムを包括するようなパラダイムが出てくるかもしれませんし、そうやって科学が進歩していくことが望ましいことでありましょう。

(→【余談】「人不知而不慍」(こちらのブログは、私人として、日々徒然に書いたエッセイのようなもので、あまり学術的な議論ではありません。))



CE 2020/07/15 JST 作成
CE 2020/07/17 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「人類学A」2020/07/13

オンライン講義という変則的な事態の中で、いつの間にか今回も含めてあと三回になりました。教材ページの作成がいつも遅くなってしまい、恐縮です。

私的な体質ではあるのですが、どうしても夜は眠れなくなり、朝は起きられなくなってしまいます。

それで、一時期、ナイトホスピタルという入院をしたことがあります。ようするに、夜は病院で過ごし、朝起きて、そこから出勤して、夕方には病院に帰って来るという、それだけなのですが、それで早寝早起き生活を叩き込まれました。私も最初は半信半疑だったのですが、強制的な合宿生活に慣れてくると、自堕落な生活に慣れきっていた脳が鍛え直されるのを実感しました。

ところで、睡眠障害は、分類上は精神科の領域なので、入院も精神科の病棟になります。統合失調症うつ病の患者仲間たちと暮らす日々というのは、独特の社会学習になりました。精神科病棟などというと、偏見があるかもしれませんが、精神科病棟に入院している人たちは、脳が疲れて、脳の一部分が炎症を起こしているだけで、もともとは、普通の人たちです。そこは偏見を持ってはいけません。治療が終われば、普通の人として退院していきます。

ただ、ごくたまに、天才的な狂気という雰囲気を持っている人はいます。私は、ナイトホスピタル生活中に、偶然、前衛革命芸術家、草間彌生さんと出会いました。衝撃的でした。九十歳の現在に至るまで四十年間、病院で暮らしつつ、病院の斜め向かいに、病院よりも立派な自分の美術館を建ててしまったという、こんな人は、他に聞いたことがありません。

しかし、心を病めば創造性が高まるかというと、そうでもありません。ただ、精神病的な傾向と、学術・芸術(あるいは宗教)における創造性には、未解明の相関があります。詳しくは「精神疾患と創造性」を読んでください。

それはさておき、話を戻しましょう。先週は「人類の進化と大脳化」について扱いました。

それはハードウエア面での話ですが、ソフトウエア面では、人間の人間たるゆえんは、精神文化を持つことです。

もちろん、人間にとって道具や言語や社会は重要ですが、人間の特殊なところは、芸術や宗教など、生きていくのには必ずしも必要のない活動を発展させてきたところにあります。詳しくは「化石人類の精神文化」に書きました。芸術ということで美術、宗教ということで埋葬を例にとっています。(音楽や祈りのような行為は物的証拠を残しにく、研究しにくいのです。)

とくに洞窟壁画のことをとりあげましたが、そこから、現代の「オーストラリア先住民美術」へと話を続けます。オーストラリアには五万年以上前から先住民が住んでおり、先史時代の壁画から、都市での現代美術まで、同じ文化の中で連続性を持っている、とても特異な世界が発達してきました。そしてこのオーストラリアの先住民美術と草間彌生さんの絵がよく似ているのです。正直なところ、私は草間さんの絵が綺麗だとは思わないのですが、いや、むしろ不気味ささえ感じるのですが、そこに非常に原始的な衝動を感じます。ある種の狂気の爆発であり、爆発の裂け目から、先史時代の人間の想いが溢れだしてくる、そういう力を感じます。

精神展開薬(サイケデリックス)を服用したときに感じる世界とも似ています。色とりどりの模様を「サイケ」などといいますが、それは表面的な見えかたであって、その背後には、それを感じている、それを描いている本人の、溢れんばかりの、というか、溢れまくって手に負えないぐらいの創造性の爆発を感じます。



CE 2020/07/12 JST 作成
CE 2020/07/13 JST 最終更新
蛭川立